着物に似合う女性ということで、佐藤愛子と幸田文をあげたが、いずれの父親も作家である。愛子の父佐藤紅緑(こうろく)は、「少年小説」の分野で、昭和初期に圧倒的な支持を受け、「少年小説の第一人者」として知られている。愛子は小学校時代、父宛に送られてくる少年雑誌の少年向け小説や他の雑誌の恋愛小説を読みふけっていたといい、算術は苦手であったという。
文の父は知る人ぞ知る文豪幸田露伴であった。愛子は父の小説を読んで育ち、その中から素養を得たと思われるが、文の場合、父の書く文語体の小説から素養を得たということはなかったようで、それでも父の思い出ををつづった『父 その死』で、43歳にて作家デビューを果たしたものの、「私が文章を書く努力は私として最高のものではなかった」と断筆してしまう。
幸田文は名文家として知られるが、よどみのない自然で流れるような文体も父譲りとは関係なさそうだ。佐藤愛子の表現には力強さが感じられる。「名文」と、「美文」には文字通り違いがあるが、太宰治の志賀直哉批判はあまりに有名である。「他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ。敵の神をこそ撃つべきだ」で始まる『如是我聞』。
死ぬ数ヶ月前ぶ心中した山崎富栄の部屋で、新潮社の編集者、野平健一が太宰から口述筆記したもので、太宰の死後に発刊された。太宰は自らの師である井伏鱒二とも確執があったが、井伏が屁をこいたという太宰に、「屁などこいておらぬ」、「いや、3つこいた」などと、まるで子どもの言い合いである。太宰は境界性人格障害ではと思われるが、当時こういう診断はなかった。
「如是我聞」とは仏教用語で、「このように私は(お釈迦様の言葉を)聞きました」 の意味である。「志賀作品に文章はあっても文学はない」などとした太宰の志賀への口撃は、真っ当な批判というより彼の女々しさであろう。二人の間には感情的な確執があったことは周知の事で、他人の悪口をもって自らを誇るのは卑しいと前置きしながら、あえて批判するところが女々しい。
太宰の志賀批判に嫌気を抱いたのか坂口安吾は、『志賀直哉に文学の問題はない』というタイトルのエッセイで、「太宰は志賀に褒めてもらいたい気があったにちがいない」と洞察している。人間にはあらゆることが可能なゆえに、人がする人の批判においても、あらゆることを持ち出すことも可能なのだから、この世のいかなる偉人・才人であれども、批判は可能である。
文豪や小説家にも名文家、美文家といわれる人がいるように、悪文、良文という見方も主観的ではあるがなされる。「悪文は読みにくい上に、読みやすくすれば駄文に堕ちてしまう」というから、悪文は駄文よりは上位ということか。少なくとも稚拙丸出しの小児のような文をいい大人が書くのはちと情けない。10代には10代の文章でいいが、60代には60代の文章でなければならない。
いい大人が父母を、「お父さん」、「お母さん」では小児である。また、オット、シュウトメなどと年齢に相応しくない表記では美文も台無しである。主人とは呼べない、義母と呼びたくないのだろうが、ただの呼称だろ?主婦もあるように主人もあるんだし…。呼称にまでいちいち感情を持ち込むのが女である。いい年こいた女が、「義母ちゃん」というので会話をする気にもなれなかった。
感情的な呼称で文体を損ねてしまうのは何とも勿体ない。それにしても、美しい文章とほれぼれしたのが幸田文だった。それまで女性作家に縁がなかったこともあって、彼女の瑞々しい感性には惹きこまれてしまった。当初、『おとうと』の冒頭を美文と捉えていたが、国語表記的な書式の美しさを美文とするなら、書かれた情景の美しさに匂いや香りまで漂うのが名文であろうか…
『おとうと』や、『髪』の冒頭、『流れる』の一文を目に、同じような感性はあっても、こういう書体はどこから湧き出るのかと信じられない面持ちである。文学的対象は言葉を透して実現されるものだが、決して言葉のなかに与えられるものではないのだろう。「対象の本来的性質は、沈黙であって、言葉の対立物である」と作家で哲学者のサルトルが述べている。
むつかしい表現だが、ある作品の意味するところは、決して言葉の合計ではなく、言葉のつくる有機的な全体として捉えられる。即ち、作者の沈黙の部分は、むしろ言葉に先立つものであり、言葉の欠如であって、言葉が特殊化する未分化の領域といえる。噛み砕いていえば、表現されたものをとおして、「表現されなかったもの」、「表現できないもの」を発見・創造する。
これらを本能的になり得る人こそが人に感動を与える物書きといえるだろう。それにしても幸田文にしろ、佐藤愛子にしろ、「文は人なり」というようにそのことを強く感じる。名文家の幸田はさておき、佐藤愛子の人間性や人格を論じたものは結構あるが、江場康雄氏の佐藤評には思わず笑ってしまう。自分が感じること、言いたいこと一切を江場氏が述べてくれている。
彼自身、笑わずにいられないようで、その気持ちはよく分かる。彼女は旭日小綬章 を叙勲されているが、その時の記者会見は何故か和服ではなく洋装であった。和服か洋装か、考えたあげくの洋装だったのだとう。兄サトウハチローについてはこんなことも述べていた。「私の兄にサトウハチローという詩人がおりまして、だいぶ前に、やっぱり似たような勲章をいただいております。
私たちはあまりしょっちゅう行き来するというような仲のいい兄妹じゃなかったんですけれど、その時に『おーい、愛子、おれは勲章をもらっちゃったよ』っていきなり電話がかかりまして。ものすごく喜んでいるものですから、私は思わず『まあ、昔、浅草で鳴らした不良少年が勲章をもらうようになったの、えらい時代になったもんだわね』って言ったんです。
そうしたら兄はムッとしまして…。兄はそういうことを非常に厳粛に、名誉に受け止めているんだなと。(略) その不良の妹がまた、言いたいことを言い、書きたいことを書いて、辺りをはばからずに生きてきて勲章をいただくとは、兄が勲章をいただきました時よりも、もっとひどいことなんじゃないかなという、そういう思いでおります(笑い)。それが正直なところです。
佐藤愛子はいかなる場においても佐藤愛子を崩さない。彼女には畏れ・慄くということがないように感じられるし、肝が据わっているのだろうし、それが彼女の強さでもあり、彼女の人間的な魅力であろう。人間おそらく90まで生きると、怖いものが何なのか分からなくなるのだろうが、だからといって、言葉を選ばず、抑制もせずに率直に言うところが佐藤愛子である。