最近、指す回数が多い将棋相手のFさんが対局中、「趣味はなに?」と聞いてきたので、「将棋」と答えるのも趣向がないから、「料理、音楽、スポーツ、何でもやりますよ」というと、「趣味は多い方がいいからね」という。73歳のFさんが油絵を描いているのを知っている。自宅とは別に近くにアトリエ専用の借家を借りて、妻が作った夕食をそこに運ばせているという。
「ほとんどそこで寝泊まりをしている」のだそうだから、一人暮らしということになる。「3月に入ると県美展の出品作品に取り掛かるので、少し将棋はお休みになる」という。携帯にある何枚かの絵を見せてもらったが、それを見る限りでは結構描けているように思えた。県美展に出品するくらいだから、生半可ではなくそれなりに自信もあるんだと思われる。
昔から、「趣味はなに?」と聞かれるのはあまり好きではなかった。理由は自分の趣味は何かよくわからなかったからだ。「読書」や、「音楽鑑賞」を趣味という人は普通にいるが、自分にとってそんなものは趣味というより日常である。読みたいから読み、聴きたいから聴くのであって、誰も読むだけ、聴くだけで生きてはいない。したいことをしたいときにやれば趣味なのか?
それは生活だろう。だから、「趣味はなに?」と聞かれると返答に困ってしまう。ある時期に、「趣味は考え事をすること」といった頃もあった。ふと目についたこと、気になったことに考えが巡ると止まらなくなる。考える以上は、答えを求めているのだろうが、求めた答えが恣意的・独善的か妥当性なものか、正当的か普遍的かなどについても戦わせる。そのプロセスが面白い。
「真理などない。絶対的な存在といわれるものは全て人間の主観的な解釈によるもの」という言葉を信奉する。「解釈」といったところで、所詮はあれこれの事柄に対して人間が下す価値評価に過ぎず、その価値評価がその人間にとって都合の良い帰結をもたらす限りにおいて、それらを真理と定めているのであって、別の人間から見れば屁みたいなものだったりする。
などと言ってしまえば身も蓋もないがゆえに、そこに伝統的なものや神学的なものをつけ足し、価値に権威を与えることで価値の信憑性を高めることを行っている。権威を好む人間は、乞食の言葉を見下し、賢者や賢人、偉人といわれる人の言葉に心酔する。乞食や幼児だってハッとさせられることをいうが、耳を傾ける気のない人間には偉人の言葉しか耳に入らない。
いわゆる真理とか信仰とかというものは、基本的には異なったものではない。どちらも社会の多数派によって信じられていることを、その存在理由としている点については同じものと考える。ある信仰が存在する理由を考えてみるに、それがキリストであれ、釈迦であれ、モハメットであれ、彼らの言葉や教えにおいての本質的な価値に疑問の余地がないということである。
ゆえにキリスト教、仏教、イスラム教という一群の信仰が現存しなければならないとの判断が下されており、これらはすべて、"生あるもの"にとって、その「生」の前提である。それゆえに、「何ものかが真なり」と思い込まれざるを得ないということが必然的なのであって、「何ものかが真である」ということではない。信じるということは、信じる者にとってはそういうものだ。
真理と思うがゆえに真理。人間という弱き生き物が、究極的なものとしての真理などという妄想にこだわってきたし、彼らはまた、それらを自分たちが生きていきやすいよう価値評価の基準を作りもし、その基準を万人に通用するものとして押し付ける根拠を、「永久不変の真理」という概念にでっちあげた。神が沈黙するのは、神を信じないものにとって当然のこと。
将棋の米長邦雄はなかなか名人になれなかったが、七度挑戦してやっと名人に就いたとき、「将棋の女神がそろそろ自分に(名人)になっても良かろう」と許されたというようなことを言っていた。羽生善治は、「将棋の神様と対戦するなら、角落ち(のハンデ)ならなんとか…」と述べていた。神様に勝負を挑む、立ち向かうというのも怖れ多いが、ハンデがあるなら…ということだ。
これを自惚れと受け取る人もいたが、神を比喩とすれば真面目な発言というよりリップサービスであろう。比喩的に使われる神なら神を信じぬ自分でさえ使うこともある。人は何かを信じることの方が生きていきやすいのだろうが、さりとて自分は何を信じているのか、確たる信じるものがあるのだろうか?こういう自問が湧いた時に思い出すのが以下の歌詞である。
これこそは信じれるものが この世にあるだろうか?
信じるものがあったとしても 信じない素振り
後段の、「信じいない素振り」をする理由が何故か分からぬが、信じるものがあるなら自分は信じてみる。信じた相手から裏切りにあった経験もあるが、それは信じた自分が悪いのであって、「そんな相手とは思わなかった」は、ダサい言い訳である。すべての結果は自己責任でしかない。なぜなら、自分がしたことであって、他人からされたとの言い方は逃げでしかない。
他人から、"されるようなことをした"のは自分である。さて、将棋のA級順位戦最終局は毎年3月に行われるが、これはA級棋士たちの大晦日のようなもので、「将棋界の一番長い日」といわれている。この言葉は元毎日新聞記者で、将棋の観戦記担当記者であった故加古明光氏であるらしく、その語源は、1967年の映画『日本のいちばん長い日』にちなんだものと推察する。
『日本のいちばん長い日』は、御前会議において降伏を決定した1945年8月14日の正午から玉音放送が放送された8月15日正午までの24時間が描かれた映画である。日本の行く末が真に問われることになろう様々な出来事が凝縮され、長い長い一日であったように、最強といわれるA級棋士の一年間の総決算と今後の行く末を問う、文字通り棋士にとっての長い一日である。
その中で今期の将棋界における象徴的な出来事があった。竜王戦挑戦者に決まっていた三浦弘行九段にスマホカンニングをでっち上げた渡辺明棋王が、三浦九段と最終戦でぶつかり、敗れてA級を陥落した。これを因果応報と捉えたものは多かったろう。「因果応報」とは仏教用語で、事実はともかくそういう状況になった。たまたま勝ち、たまたま負けたのかもしれない。
が、そのような言われ方になっても仕方がない。渡辺はそれを感じたのか、三浦もそれを感じたのかは分からないが、そういういった目には見えぬ力が双方に加味されたかどうかも分からない。ウソ発見器のように、そういうものが分かる機械があったとしても、どちらも拒否するであろうが、その様な人間関係の機微というものは、人間が連想したり、想像する以外にない。
あたかも、「因果応報」という言葉を当て嵌めて、そのように言い切ったとしても推測でしかない。そのように人間は人間の真意をいつもあれこれと想像して考えるしかないが、間違いなくいえるのは、人間はちょっとしたことで精神が乱れるが、これを「自律神経の乱れ」という。自律神経は意識外で勝手に働くもので、意識でコントロールできない厄介なもの。