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自己犠牲という「美学」?④

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姑の毒舌に対する我慢。言いたいことを言わぬも自己犠牲か、上記の様子に笑ってしまった。「なんで、そんなまずいものを食べるの?」と、人の食べ物にケチをつける姑は、「なんで、そんなバカなの?」と思うだけだ。そこに自分が居あわせたら、それこそ咄嗟に、「いちいち人の食べ物に口を出すなよ。姑ってのは嫁に対してそんなに偉いんか?」といいそうだ。

善意で考えるなら、こういうことを平気で言える姑は、悪気も遠慮もないとするなら、嫁も遠慮せず率直に言い返す方がいい。それで腹を立てる姑なら、悪意や遠慮がないのではなく、意地悪姑と思ってこびへつらわないことだ。680円だった会計に1180円だすと、「気持ち悪い」という女がいた。それに同調し、「500円玉を貰おうとする魂胆が気持ち悪い」といった女子アナ。

もはや自分の世界観にどっぷりと浸かったナルシストというしかない。こういう女は、将来とげとげしい物言いをする姑の予備軍であろう。細々と他人に自分の価値観を押し付けつ女は男的に見て理解不能。「じゃかましい、人の食い物にまで口を出すな」と、多くの男の子が母親の小言にそれで対処してきた。500円玉ごときでこれでは、女の脳も余計なことばかりが満載している。

くだらんことをいちいち気にかけるよりも、もっと大事なことってあるだろう?と思うってしまうが、くだらんことに脳が働くのが女なら仕方がない。嫁と姑のバトルなどは、女の底意地の悪さ丸出しである。男が割って入るようなことではないほどにくだらんことで遣り合っている。男からみると批判の部類になるが、女同士の会話というのは、息継ぎしてるんか?というのがある。

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それくらいのテンポで、次々と速射砲のように、一つの話題がどんどん色んな話題にすり代わり、どの話題1つ1つとっても超薄っぺらい部分だけを、執拗に念入りに話している印象がある。内容にはまるで中身がなく、互いの言いたいことだけをいい、相手の話に同調してるだけに聞こえる。だから、延々と喋くり続けられるのだろう。男は相手の言い分に否定をするから話が続かない。

カーリング女子の、「そだねー」が話題になっているが、「それはちゃうで」が男の常套句。これからしても女は群れ、男は孤独に生きるようになっている。誰がいったか、「一人で飲みにいけない男は大成しない」というが、女は一人でレストランや吉野家に行きたがらない。腹が空いたから何かを食べるという時でさえ、他人から見られる自分を意識するのだろう。

いちいちそんなでは、男からみれば大変な生き物のように思われるが、それで慣れっこになっている。男の「孤独」とは、決して淋し気な状況ではなく、もっと別のポジティブは意味を持っている。「ひとり時間」を大事にするがゆえに、男は思索家たり得るのだ。誰かの話に合わしたり、無理に相槌を打ったりではなく、男は一人好きなように感じ、考える楽しさがある。

むか~し、「孤独が一番の友」と彼女にいったとき、「変わってるね」といわれたことがあった。誰にも邪魔されないでひとりでいる孤独の時間こそ友であるのは、昔も今も変わらない。決して他人に愛想するのが苦手でもないし、嫌いではないが、人間が本当に自分に向き合えるのはひとりでいる時だと思っている。家庭においてもその流儀は変わらなかった。

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自分専用の書斎があるわけではないが、男には孤独になれる場所は必要であろう。男にとって孤独とどう向き合うかが、人間の強さ、豊かさの源ではないだろうか。自分がケータイを持たないのもそういう性向にあるのだろう。いじめ問題を考えるとき、人が群れるからいじめが起こるのではと、そういう要素もあるだろう。いわゆる女性特有の仲良しグループという奴。

なぜできるのか男には分からないが、女にとっては普通のことなのだろうが、そうなると必然的に排除の論理も湧いてくる。男の集団にもそういう傾向があるのだろうが、それプラス個々の資質に、他人(特に弱者)をいじめることでしか発散できないフラストレーションがある。そうではない精神(心)の健全なグループもある。いじめ加害者は何か重いものを背負っている。

「多勢に無勢」という諺からしても、個人が集団に勝ち目はない。もっとも、いじめも個人で行う場合もあり、集団いじめとは分けられている。親の子いじめ、姑の嫁いじめはれっきとした個人のいじめである。さまざまないじめを突き詰めていくと、共通項のようなものがいろいろ見えてくる。その中でも確信的なものとしていえるのは、「いじめは依存」というキーワード。

いじめを行う人間には、何らかのバックボーンがあり、それが不満であるとかストレスであるとか、いずれにしても自身が感じた苦痛を、意識の上だけで除去する方法を知らないため、あるいはできないために起こると考えられる。その意味で自己をコントロールできない脳の所有者である。キッチンドリンカーのように、対象を必要とする点において、いじめも依存症といえる。

イメージ 4さらにはいじめ加害者には優越意識があるが、その反面、無意識化の劣等感も内在されている。それが強い自尊感情となり、自分はどうやら出来の悪い下等な類の人間と意識するのが耐えられず、自分以下の人間を見つけ出し、いじめを加えるのだろう。こうした複雑な心理が噛み合っているいじめをなくするのは不可能である。つまり、どんなことでもいじめに該当する。

「ムカつく」、「喋り方が変」、「顔が変」、「家が貧乏」、「臭い」などと、加害者自身もいじめることの後ろめたさを持ってはいるが、それらをいじめの正当性として当てはめるる。人間が何かを自己正当化をしようと思えば出来ないものはないだろう。このような身勝手な論理でいじめを行う者に対し、「いじめられる方も原因がある」は酷過ぎるし論理的ではない。

上記のような自己の身勝手な論理でいじめを行う人間に、どういう薬をつければいいのだろう。頭でいろいろ考えるが、頭ではじき出す回答は実践的に機能するとは限らない。行動の前に思考は重要だが、何事も最後は行動である。発明も発見も実験をしないことには生まれない。子どもに大人ができる唯一身近な実験は、親の子どもへのさまざまな、良いと思われることだ。

が、何を良いと思うかが、個々の親によって違いすぎる。我が子が人をいじめることを、「いじめられる子に問題がある」と何とも思わぬ親は多いようだ。人をいじめるような卑怯な我が子など、逆さに吊るして血反吐を吐かせるくらいに怒る親が必要だろう。それがいじめ撲滅の最も的確な、身近な方法かも知れない。嫁をいじめる姑に息子は同じようにやったらいい。

自分の母に対し、身を呈しての自己犠牲精神では?無慈悲に嫁を襲う姑津波からも、同じように身を呈して防波堤になろうという自己犠牲精神である。聞くところによれば、姑の嫁いじめを知りつつ傍観者を決め込む夫がいるというが、夫が何かをしないで解決するとは思わない。自分は徹底的にそれをやった時、母は嫁に泣きごとの手紙を書いていたようだ。

「息子がワシをいじめる」などと…。女の浅知恵と笑うしかないが、母親と息子が仲が悪いと、母親は嫁を味方に引き入れようとする。息子を自分の敵と見据えた母の苦肉の策であろう。ならばと嫁・姑バトルを収める最善の方法は、息子と母親が仲が悪いのがよいのかも知れん。いかに気丈な母といえども息子に叱られ、相手にされないなら、嫁になびくしかない。

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