自己犠牲と自己抑制は違う。「自己犠牲的精神を発揮して〇〇する」などというが、そういう経験はこれまでにない。自己犠牲とは、他人の幸福のために自分の幸せを投げ出す行為であり、そうした機会などそう頻繁にあるものだろうか?「自己犠牲以上に大きな幸福はない」とドストエフスキーは言っているが、それほど体験できることではないということだ。
「自己犠牲」という言葉の意味は理解するも、実感としての自己犠牲はないと言っておく。自分に経験はないが自己犠牲や自己犠牲精神はあると思う。パッと浮かぶ光景は、火事で燃え盛る中に子どもを助けに飛び込む情景だ。母親の愛情は崇高で、子どもを産めば誰でも立派な母親になれるなどと、母性に絶対的な信頼(いわゆる母性本能信仰)が日本人にあった。
「日本人に…」という前置きが示すように、「女性に生まれつきの母性本能はない」ということは、200年も前から数々の実験で証明されてきているのだ。ここでいう母性本能とは、女性なら誰でも子を産み育てることに無上の喜びを感じ、子ができると子を最優先し、自らを犠牲にしてでも子を守るという意味ではないが、日本人はなぜかそうした母性本能を信じていた。
「この子ためなら、自分の人生全てを投げ出して良い」と真から思える親は、無償の愛を差し出すはずだが、実際は子どもを自身の自己実現に利用する道具と考える母親は少なくない。「そんなことはありません」と否定をすれど、無意識の自覚である以上やむを得ない。赤ちゃんの可愛さというのは、産んでみなければ、というより育ててみなければわからない。
これは事実である。「わたしは子がどもが苦手でした!どちらかといえば好きではありませんでしたが、実際に自分の子どもが生まれてみるとやっぱり可愛いいんです」。しばしば耳にする言葉だが、子どもはいつまでも赤ん坊ではない。親に向かってあからさまに反抗し、憎まれ口でも発するなら、親は自己犠牲精神はおろか、我が子に憎悪を抱くことすらある。
運命共同体として親子はともかく、一般的に自己犠牲精神を有す人は、良い人とみなされ、「ひとの良さ」とはそういうことを指して言うが、良い人であるが故に尽きない悩みもある。自分を犠牲にしてまで相手に尽くす行為とは、「そうしたい」というより、それを避けられない思いが強いという現実がある。「いいひと」をある日突然変えることもできないもの。
そういう苦悩は想像できる。相手はこちらが思っている以上に断られたことを気にはしていないものだが、そこが分からない。一度「ノー」といっただけで壊れる人間関係なら仕方ないなと腹をくくることだ。大事なことは自分を大切にすることである。一方、自己抑制が旺盛な人は、いつも控え目で当たりさわりがなく、こちらも「いい人」の代表のように見受ける。
頼まれ事を断らない。何でも引き受ける人を「責任感が強い」というのは全然違う。何でもできるほどメンタル的にも能力的にもタフな、スーパーマン的な人物などそうそういるものでもないし、引き受けたことをどれだけ身を入れてやるか、できるのかも疑問である。本当の責任感というのは、「できる事はできる」、「できない事はできない」と言うべきである。
が、本当に良いと思っただけでなく、人の言う事を何でもカンでも聞きいれる人は、自分が責任を取りたくもないし、取らなくて済むという姑息な考えの持ち主もいる。自己の欲望をあまりに抑えすぎると、突発的に爆発することもあるので、そういう時は相手も面食らうことになる。素直に人に従っていたのは本意というより、ストレスをため込んでいたことになる。
以下は坂口安吾の一文。「家庭は親の愛情と犠牲によって構成された団結のようだが、実際は因習的な形式的なもので、親の子への献身などは親が妄想的に確信しているだけで、かえって子どもに服従と犠牲を要求することが多いのである」。彼がいうように親の犠牲的精神は、子どもを持ったことへの必然的使命であって、「育ててやった」などと驕り昂ぶるものではない。
子どもに否定的な親は多い。親は子どもに共感すべきなのに共感能力欠如の親は少なくない。共感能力とは相手の気持ちを共に感じる能力であるから、相手の喜びを喜び、相手の苦しみを我がことのように苦しむ。実は「共感」も能力であるから、まるでない人もいる。人をいじめて平気なのは共感能力がないばかりか、相手の苦痛が心地よいという倒錯心理の所有者である。
子を優越感に浸るための道具にする親がいる。子どもに物事を正しく見つめる力があれば、そんな親は非難するだろう。有能な部下を持った上司が、自身が指導したかの如く己の手柄にするようにである。「恩」というものは正しくやり取りすべきものだ。なぜ我が子をいじめる親がいるのか?情緒欠落者で大人になり切れていない。そういう親が殴る蹴るの虐待に発展する。
子どもに自己犠牲を強いたと思いたい親はいるのだろう。子どもへの一切のことは親の義務であって、「お母さんありがとう」の母の日も父の日も、それで親の苦労が癒されるなら、「子どもの日」に親は子どもに向かって、「お前たちありがとう」といってあげよう。思うに親から一度も「ありがとう」をいわれた共感経験がない自分は、捻じれた育ち方をしたのだろう。
先日もある女性に、「お誕生日おめでとう」といわれてはたと考えてしまった。女性はメールで、「今日で〇〇歳になりました」と述べ、なんと自分と5日違いかと思いはしたが、「お誕生日おめでとう」の言葉を贈らなかった。誕生日の何がめでたいのかを知らず分からずの自分も「耳順」の歳を超えれば言葉通り、「耳にしたがう」こともあっていいかと、それで発してみた。
後に、「やっぱりめでたいものですか?」をつけ足したのは、女性は年を重ねて嬉しくないのでは?それでも「お誕生日おめでとう」いわれる二次被害に会うと、判断した言葉を書き添えたもの。相手がどう受け取ったかは分からない。が、とある理由もあってか、ふと、佐藤愛子のことが頭を過っていた。大正生まれの彼女は気丈な人で、94歳にしてなお矍鑠とされている。
詩人のサトウハチロウは知る人ぞ知る異母兄。愛子はその歯に衣着せぬ発言で人気を博す。エッセイ集『九十歳。何がめでたい』に収録の1編の題名、「いまの世の中を一言で言えば『いちいちうるせえな』、これに尽きますよ」なども彼女らしい。同世代の瀬戸内寂聴は、「『いちいちうるせえ』なんて、われわれの年のおばあちゃんが思っていても言えません。
だから愛子さんの言葉にはいつもパチパチと拍手喝采するんです」という。自分は中高生の頃、たまに新聞の記事で読む佐藤愛子という人の言葉には神が宿っているような印象をもっていた。彼女自身が母親と衝突していたこともあってか、親目線ではなく、子ども目線の発言が核となり、だから自分にとっての佐藤は、「世の子どもたちの優しいお母さん」であった。
佐藤愛子はとてつもない苦労体験をしてきた人である。ああいう感性はそういう人でなければ身につかないのではないだろうか。着物のよく似合う素敵な女性である。着物といえば長編小説『きもの』の幸田文が浮かぶ。この作品は、彼女の大正期の女の半生をきものに寄せて描いた自伝的作品。佐藤愛子と幸田文は、19歳の年齢差があるが、日本人の魂やどる素敵な女性である。