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自己犠牲という「美学」?②

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武士道とは主君と家臣の封建的主従関係で成り立っているが、戦国武士道と江戸時代の近世武士道で君臣の論理は大きく違っている。大きな要因と考えられるのは徳川氏が天下をの権を握ったことにある。三河の松平は譜代意識の強い大名であり、他国の大名に比べて滅私奉公の考えが強烈な家柄だった。それが江戸幕府における主流意識になったことの意味は大きい。

「犬のような忠誠心を持った三河武士」などといわれるが、これは家康、秀忠、家光三代に仕えた大久保彦左衛門忠教が自著『三河物語』の中において、自分たち三河譜代は、「良くも悪しくも御家の犬」と表現したことが出典と思われる。武士であった松尾芭蕉が武士を捨てた理由を、「武士は二君にまみえず」の論理を貫いたように、これが近世武士道の根幹であった。

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戦国時代の武士道は、家臣が主君を倒す下剋上が横行した時代であり、家臣が主君に諫言したり物申すは当たり前だった。戦国時代はまた、「居留の自由」、「去就の自由」ともいい、誰に仕えようと自由であり、主君をしばしば変える現象もみられたが、徳川政権以降にはそうした、「渡り」が次第に否定されて行った。下剋上を否定し、君臣の身分を固定したのである。

戦国時代なら暗愚な主君を見限り、主家を去って新たな主君に使えるか、主君を倒す謀反を企ててのし上がる者もいたが、徳川時代においてはそういうことは皆無となった。家康をはじめとする徳川幕藩体制創始者たちは、「戦国の世は終わった。今後はたとえ暗愚な藩主であっても、主君の命は絶対的なものにした方がよい」と考え、そうした仕組みを作り出して行った。

そうした近世武士道の、「命より名を惜しむ」、「人は一代、名は末代」に代表される考えは、生きてる間の評価より死後の評価を大切にした点にある。常に死と隣り合わせの武士は、人間五十年という刹那の生も相まってか、短き一生如きなら、死後になされる自身への評価に重点を置き、「惨めで恥辱的な生き方や死に方はしたくない」との思いに変わっていった。

また、名誉ある死に方をすれば、子孫が優遇されるという実利的な面もあり、武士とて人の子、こちらの公算の方が大きかったと思われる。天正10年、上杉方支城である越中国魚津城は、織田方柴田勝家の攻撃を受けていたが、上杉勢の後詰め叶わず、城兵全員が切腹落城した。敵士に捕らわれ武名を汚すより、各々一同腹かき切りて名を後代に残さんということになった。

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どこの落城場面に見られる一光景であるが、魚津城の場合、その先が壮絶であり、見事なパフォーマンスがなされた。城兵たちは個々の姓名を板に書き、耳に穴を空けてそれを結わえつけたうえで切腹していた。つまり、それが誰であるかを示すための細工だったのである。このとき切腹した者の名は後世まで記録として残され、各々の子や孫らは景勝に取り立てられた。

彼らは包囲する勝家勢の監視の目を欺き、密かに城を出て落ちのびることはできたろうが、そうして生き延びても結局は恥さらしの不名誉な生となり、子孫たちもその重荷を背負って生きることになる。こうした場面における名誉ある死に方が、子孫たちに厚遇を残すことになれば、それこそが、「名を残す」。あるいは、「名をとどむ」といわれる真の狙いがあった。

武士道の論理というのも、所詮は功利に殉じたものであるのが理解できる。ゆえに、命以上のものがあるなら人は命を捨てること吝かにあらずだったが、近年に見る自殺者の心境というのは、武士の死にざまとは大きく異なっている。生きて恥辱にまみれたくないというのがエリートたち一貫した自殺理由であるようだ。これをエリートの挫折といえばそうであろう。

佐世保女高生殺害事件の加害者である父親の弁護士が自殺した。死ぬとは思わなかったので驚いたが、死なねばならなかったのだろう。STAP細胞関連で、理研の笹井氏もクビ吊り自殺をした事にも驚いた。死に行く者の心は本人以外に分からない。周辺は、「そんなことで死ぬのか?」の思いしかないが、死に行く者にとっては、「そんなこと」ではなかったようだ。

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広告大手代理店「電通」勤務の高橋まつりさんも24歳の若さで人生を終えた。過労苦による自殺がいたわしい。彼女が自殺までに綴った、「苦悶の叫び」50通は彼女を知らぬ我々でさえ心を痛めた。背景には電通の壮絶、「鬼十則」があったという。これは第4代吉田秀雄社長の遺訓とされ、電通の社員手帳に掲げられている。「鬼十則」の一部を以下抜粋する。

◎ 取り組んだら「放すな」、殺されても放すな、目的完遂までは。

◎ 仕事とは、先手先手と「働き掛け」で行くことで、受け身でやるものではない。

◎ 頭は常に「全回転」、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそういうものだ。

これについて正直な感想をいえば、この程度はどこの会社でもある。というか、仕事をする上においては至極当たり前のことと感じられる。「殺されても放すな」は比喩であろうし、誰に殺されるでもない。ただ、人には各々の領分があり、それをキャパシティと言い方をするが、キャパシティを超える仕事をさせられた時、鬱気分の高揚から過労死リスクが高まるのではないか。

自らの仕事がキャパシティの量を超え、体調が思わしくないときに、有休をとったりもできない状況なら自己の体調管理はできない上、会社の労務管理も不備であるならやり場がない。どこの会社も社員にはガツガツ仕事をさせたいだろうから、生真面目な人間はその煽りを食う。真面目である方が仕事の効率は上がるというではなく、仕事は能率よくやるものでもある。

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クルマに人の命を守るのに重要なハンドルやアクセルにも、「遊び」が重要であるように、人には遊びに匹敵する趣味が重要である。趣味は決して暇つぶしではなく、心に「ゆとり」をもたらすものとなる。戦時中の物資のない時代の、「切りつめ」は、お国のためという大義があったが、昨今の、「切りつめ」は、人間らしく生きるためではないか。切りつめればゆとりがでてくる。

ゆとりをもって生きることは、とりもなおさず人間らしく生きることでもある。ただし、物とお金にのみゆとりを見出して、「人間らしく生きています」は笑止であろう。お金や物の不足を何とも思わぬ、真の心のゆとり所有者を幾人ばかり見たが、彼らの心には見るからに「自己」が充満している人たちだった。そうした心にゆとりをもたらす趣味は、人間に必要な、「遊び」であろう。

「剃りたきは、心の中の乱れ髪」という句がある。つとめても、つとめても起こる心の迷い、乱れ、それが人の常とすれば、その苦しみから対象を責めたり、許せないなどと文句をいったところで始まらない。なぜなら、相手が耳を貸すはずがない。変革を諦めるのではなく、外的環境の圧力に屈して死を選ぶなら、仕事なんか、「クソでも食らえ」と辞めてしまえばいい。

それもせず、「社会が悪い」、「会社が悪い」、「上司が悪い」、「親が悪い」、「相手が悪い」といってみても、自身の中で不平分子が高まり、育つだけで、それに抗って生きる力や、環境への対応力を持った人間にはなれない。文句を言うくらいなら、どんな方法であれ問題を解決する人間になるべきかと。学校が嫌なら行かない。ひどい会社なら辞める、これも問題解決である。

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つまるところは、「行動」である。行動なくして大方の物事は解決しない。そう思う自分、そうしか思わない自分の差は、行動を一義とするか否かである。行動さえしておけば、誰もが後で振り返って、あの苦しみを通らないでよかったか?と聞きなおされたとき、「いや、通ってよかった!」というに違いない。すべての苦しみは糧になるばかりか、後の笑い話になる事さえある。

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