日本人は、「自己犠牲」というのを、美学・美意識と捉えているようだ。つまり日本人には、自分を犠牲にしても他の人の役に立つことがよいことだと考える文化が根付いている。これは封建的主従関係という形で鎌倉時代から江戸時代までの主従制と、それに伴う武士道徳から派生したものであろう。「花は桜、人は武士」というように、日本人にとって武士が人間の最高規範であった。
その武士の生き方についての指南書が『葉隠』である。その書頭を飾るのが「四誓願」という言葉で、これが『葉隠』の精神の主柱となっている。つまり、『葉隠』の全編はすべてこの四つの言葉から発しているといっても過言ではなかろう。『葉隠』の述者で鍋島藩士の山本常朝も、「四誓願を、毎朝、仏神に念じ候へば、二人力にて、後へはしざらぬものなり」。と述べている。
この場合の仏神とは宗教的な意味での神や仏ではなく、己の中にある正ならんと欲する心、つまり、「真(まこと)心」と解釈すべきもの。自身の中の、「真心」に向かって、この四つの言葉を念じ、誓うのである。一つの難問、難題に遭遇した時、自分はどう考え、どう行動すれば武士に遅れをとらないか、主君のために用立つか、親孝行に適うか、思いやりをもって人のためになるか。
このように、「〇〇すべし」という価値体系の画一化が、日本人の日本人的な文化となって、後の、「戦陣訓」や、「社訓」となって残っている。現代社会はあまりに価値観が多様化し、企業の経営者に奉仕し、親に孝行することが絶対的無謬ということはない時代である。過労死の問題や尊属殺人が発生するのは、社命は絶対、親の言葉は絶対という間違った画一思考である。
会社に反旗を翻したり、親に反抗するというだけで、そういう人間を異端視する者は少なくない。「給料をもらっているのだから、経営者の意図する社員であらねばならない」。「産んでもらい、育ててもらった親には、孝行し、恩返しをしなければならない」というのは、一見正しいようで、実は間違っている。そういう事例をたくさん知るが、洗脳された人間には伝わらない。
自分は社会的弱者といわれる人たちが、どのように自己を見つめ、他人を見つめ、どのように接しようとしているかに興味を持っていた。そのことから、健常者には決してもたらせない種々の思いや考えを体験したかったからである。男は女を、女は男を理解できない。親は子を、子は親を、若者は老人を、老人は若者を、健常者は障害者を、障害者は健常者を、理解できない。
などいわれるが、本当なのか?理解というのは確かに至難であるが、だからこそ取り組む価値のあるものでは?とっかかりになったのが、母親であった。母親って何だろう。こういうものか?なぜ、他人の母親とはこうも違うのか?それは苦しみに似た心の叫びでもあった。それが嵩じて、親とは何か、どうあるべきか、どうあるべきとは親のためにか、子のためにか?
などを双方の立場から考えるようになった。「自分は自分であって他人であり、他人は他人でありながら自分である」というのが、自分が物事を思考する上での根幹となっている。ゆえに、自分の目でしか思考せず、他人の視点や気持ちをまるで考えない人間は、どうにもバカにしか見えない。人間が自分の視点だけで何かを言えば、何でも言えてしまうのが恐ろしい。
一般的に人間は自分の考えで物を見たり考えたりする。そうであるなら、自己を否定する考えに及ぶことも冷静ではないか。自分を基準にした考えが絶対に正しいと思い込むのはあまりに幼児的発想である。自身をその様に戒めながら、物事を相対化して考えるクセがついてしまった。「それでは結論は出ないんじゃないか?」といった友人がいたが、そんなことはない。
将棋や囲碁の棋士が自他の指し手のあらゆる可能性を探る思考をするが、それで指されないということはない。あらゆる可能性とまではいかないにしろ、想定できる可能性を思考するのはむしろ必然と思われるが、われわれ凡人は残念ながらそこまでの域に到達できない。それができたら失敗も最小限に抑えることができる。孫氏は自著、『孫氏の兵法』の中で以下述べている。
・自らを知らず、敵を知ることなきは百戦百敗
・自らを知り、敵を知ることなきは百戦五十敗
・自らを知り、敵をも知ることなりは百戦百勝
・自らを知り、敵を知ることなきは百戦五十敗
・自らを知り、敵をも知ることなりは百戦百勝
己を知り、相手を知るのは戦いの場だけではないし、知るべき相手は敵だけではない。フロムは、「愛は習わなければならない」と書いているように、自分が愛するに値する相手が目の前に現れてはじめて愛が芽生え、対象の消滅と同時に消えるという、愛とはそんな儚いものではない。それは恋であっても愛とは呼ばないものだ。恋愛と一言でいうが、恋と愛とはずいぶん違う。
会ったこともない、言葉を交わせたこともない相手に恋はできる。多くの少女がジャニ系男子に憧れるように…。また、愛とは持続しなければならぬもので、その意味で愛は力であり、愛されること以上に愛することを望むものだ。「愛」の対象者に対し、利己的で独占欲しかないものもある。恋人を人に奪われないようにするとか、我が子を教師に特別に目をかけてもらうとか。
夫を出世させるために、尻をひっぱたくとか、他人の夫と比較して愚痴をいうとかなどのどこが愛であろうか。人を愛するのは「力」であり、その人の能力である。大事な物、肝心な物は目には見えないことを、『星の王子さま』が教えてくれる。王子は砂漠でヘビに会った後、今度はキツネと出会って仲良くなる。別れ際にキツネが、王子に秘密の贈り物を手渡すときに言う。
「それは何でもないことなんだ。心で見なきゃ物事はよく見えないってこと。肝心なことは目には見えないんだ」という。「肝心なことは目に見えない?」王子はその言葉を繰り返し、意味を考えようとしていると、キツネがいった。「あんたが星に残してきたバラの花をとても大切に思っているのは、そのバラの花のために大切な時間を無駄にしたからからだよ。」
「人間はそれで大切なことを忘れるのさ」。日本の童話では嫌われ者で意地の悪いキツネがこんないいことをいう。「大切なこと」とは、子どもが持っているような、いわゆる、「心の目」であろう。素直な目で物を見、心の耳で人の話を聞くということ。花に水をやり、虫をとったり、慈しみの心で大事に育てることで花への愛着を抱く。無駄な時間であるが大切な時間でもある。
同じように、我々が本当に深い愛を育てるためには、何かのために、誰かのために、多くの時間を無駄に使わねばならない。得になるものには時間を使うが、損になることに時間を惜しむ。奉仕作業のような、一銭の得にもならないことでも一生懸命にやる親の姿を子どもは見て育つのだ。それを考えると、愛とはどういうものかが分かってくるのではないか。
こんな当たり前のことでも、今の時代はあまりの価値観の多様化もあって、忘れられている。いや、頭にはあっても行為がおぼつかない。そんな時間より、もっと有意義で、実のあることを人はやろうとする。何かを言えば、「そんなこと分かっている」と反発心もわくだろう。「分かっている」ではなく、「出来ているか」を問うものであるが、人の自尊心が説教を嫌悪する。
いつも説教臭いことを書いていると思う人もいるかもだが、幸いなるかな自分のブログは独り言ブログである。常連の読者もなく、儀礼的反応もないゆえに、自らに対して自由に気兼ねなく申し述べられる。自らを自らが説教するのだから迷惑はかけずに思う存分に振る舞っていられる。誰もが賢人、誰もが評論家を自負する時代にあって他人に物申すは、「釈迦に説法」となりかねない。