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いじめを超えて生きる! 人間の尊厳とは?

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子どもの自殺率は上昇傾向にある。動機は様々だが自殺原因をデータでみると、それらの下にある共通の地盤として、現代における子どもの、「生きづらさ」が現代的状況を一言でいえば、「逃げ場がない」こと。中学生の自殺の主な理由は、「いじめ」と思うが、いじめがなかなか認定しにくいこともあり、それがデータ上では、「学業不振」となっている。が、学業不振で死ぬのか?

子どもが学業不振に悩むなんてのは、自身の目的を阻むものという一次的苦悩というより、むしろ親がそのことを叱責する二次苦悩ではないか?子どもは遊ぶために生きているとは言い過ぎかも知れないが、いかに子どもを遊ばせないようにするか、それが現代の子どもを取り巻く状況である。小・中・高12年間の学校生活を振り返れば、何より楽しかったのが休憩時間だった。

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朝から夕方まで教室という四角い空間に閉じ込められ、気の合わない人間と同居し続けなければならない。場合によっては嫌いな教師の場合もある。反りの合わない他者とうまくやっていくすべを学ぶのも学校の重要な社会教育機能であるが、いじめという犯罪行為を受けながら、そこに居続けることを強いられる必要が果たしてあるのだろうか?物事は多数派的な見方をされる。

多数派が正しく、少数派は間違いという考えに陥りやすい。特に、学校のような集団社会、全体主義的なところに於いてはそういう傾向になりやすい。自分は全体主義的な考えが好きでなかったからよくわかる。「運動会」なんてのも、本当に子どものためにやってくれているのかという疑問を持っていた。炎天下で繰り返される予行演習のバカバカしさといったらない。

テレビで見る芸能人のスポーツ大会のように、予行演習なんかなしで一発でやってこそ緊張感もあるが、戦前のナチスドイツや北朝鮮労働党の党大会にみる、一糸まとわぬ行進や行列を整然とした美しさと見るからであろう。見る者が美しくとも、やる側は大変でも、見る側が美しいという考えに依りどこるからだろうが、自分にとって子どもの運動会はそういうものだった。

あれは教師たちの自己満足と、親に見せるためのものでしかないと、当時からそう思っていた。親にそんなものを見せて何になる?というより、自分の場合は親が運動会に来ることはなかったこともあったかも知れない。昔の人はつくづく働きものだったと思う。運動会や学芸会や参観日で仕事を休むなどはなかった。商売が忙しく、使用人が弁当を届けに来、一人でそれを食べる。

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前日から場所どりにとゴザを敷いていた近所の人がみかねて、「こっちへおいでよ。一緒に食べよう」といってくれる。高度成長期の只中の情景である。子どもたちが健やかに育つためには、明るく円満な家庭が必要であると、そいう主眼の元に毎月第3日曜日に「家庭の日」を設けている自治体は少なくない。「家庭の日」運動は、昭和30年に鹿児島県の鶴田町で始まった。

人口5,200人という小さな町で、「家族の絆を大切にしたい」という思いと、休みの取れない農業従事者のために、「農休日を設けては」という思いが重なり、「家庭の日」という日本で初めての試みが産声をあげた。その後、都道府県としていち早く「家庭の日」運動を提唱したのが秋田県で、昭和40年1月から第3日曜日「家庭の日」を県下一斉に実施し、全国的に広まった。

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「尊い」の言葉を頻繁に見る。「家族の絆」は尊い。「人の命は尊い」などといわれ、「尊い」の意味は大体分かるが、正確な意味を調べてみた。崇高で近寄りがたい、神聖である、非常に貴重でありがたいこと、などの意味がある。それらからして、「尊い」は、価値が高いということだろう。 「人間の尊さ」などの言い方もされるが、人間の何が尊いのだろうか?

頭よくて賢い人であるとか、家柄の良さであるとか、財産をたくさん所有する人を尊いなどといわないのはなぜか?価値が低いということになるのか?。「犬の尊さ」、「猫の尊さ」などといわないし、それに比してなぜ人間が尊いのだろうか?「命の尊さ」については根源的な問題として理解できるが、そうはいっても人は牛や豚の肉を食い、魚を食して生きている。

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となると、人間が人間の肉を食べないから尊い命ということか?ぶっちゃけた話でいえば、人間がいうから尊いのであって、「犬の命は尊いのだ!」と犬がいえば尊いのだろう。いわない(いえない)だけで、彼らは一生懸命に生きているではないか?いじめにあっても死ぬこともなく、生きることに懸命だ。ならば人間の尊さとは、知能が高くて利用価値が多いからか?

動物と人間を比較し、そのように考えられる。人間は人間が考えていることをハッキリ現わし、主張もし、自身の本能を抑制してまで、目的や理想に向かって生きることを尊いといえるかも知れない。動物は、ただ漠然と生きているようだ。聞いたわけではないが、おそらく彼らの生の目標は、ただひたすら生きることだろう。自殺もせずに、自然死までの生を全うする。

ゆえに動物に、「死ぬまで生きよう」などという必要はない。ただ、こんにち我々のまわりで起こっていることは、あまりに自己表現を知らずか、表現をせず、自己を抑えることを知ってか、知らずか、それもせず、到底大人とはいえないような、子どもじみた言動の人間が多い。会社の分業化が進むにつれて、人間関係をいよいよ複雑にしているのは間違いないであろう。

情報産業の目覚ましい発展と充実は、我々ひとりひとりに、立ち遅れまいという不安感を絶えず与えているようだ。新しいものを知らなかったり、所有していないことで、「遅れてるやつ」などと見下げる風潮もあるようだ。こうした時代のある意味怖ろしいまでに人間がエゴイスティックになっていないだろうか。命が軽んじられているのか、毎日殺人事件が絶えない。

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自分に得にならない事はなるたけしたくない。得はしても損になることはしたくない。当たり前のことのようだが、あまりにそのことが優先されると、人間は自己中心になってしまう。「譲り合いの精神」などと言う。「美しい日本語」であるが、言葉だけではなく、行為が美しくあらねばならない。こういう心はどうすれば身につき、どうすれば身につかないなだろう。

して、「譲り合いの精神」とは、どこまでをいうのだろうか?自分が損をしても、他人に得を与えることなのか?つまり、自己犠牲の上に成り立つものなのか?個人主義の欧米では、嫌なことはハッキリ、「No!」をいう。ならば、譲り合いの精神というものはないのか?そうではない。個人主義の国においては、譲る条件はあくまで自分が損をしない範囲以内である。

したがってそれ以上となると、「No!」をいう。日本社会はそれが曖昧で、譲るとなると自分を犠牲にするところまで深入りする人もいる。また、相手が望んでもいないのにサービスをしたりもする。逆に黙っていることで、相手が譲るのを期待するところも見え隠れすることもあるなど、そういった感情が多岐に及んで厄介である。外国人には到底理解できないことだろう。

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