平昌五輪も終わったが、気になる事件があった。スピードスケート女子パシュートで、韓国選手がチームメートの一人を置き去りにし、韓国国民は置き去りにした2選手に対し、代表資格追放を求める50万人以上の署名があった。代表でリーダー格のキム・ボルム選手は競技終了後のインタビューで、遅れたノ・ソンヨン選手を辱めるような発言をしたことに国民が怒ったのだ。
キム選手は、「私たちは良い滑りができていた」とし、大きく後れを取ったノ選手に、「最後のスケーターがついてこられず、残念なタイムに終わった」と語り、レース後に泣き崩れるノをキムと一緒に無視するパク・ジウ選手の様子がテレビで映され、「ノ選手とこのようなことが起こるのではないかと思っていなかったわけではなかった」パクはキムの肩を持った言葉を添えた。
これは内紛というより明らかにいじめである。こうした国辱ともいえる選手の態度に怒った韓国国民は、キムとパクの代表チーム追放を求める署名活動を開始。20日夜の時点ではや36万人の署名が集まり、韓国大統領府のホームページに投稿された嘆願書には、「人格に問題があるこのような人々が五輪で国を代表するのは、明白な国辱だ」とつづられた投稿もあったという。
20日午後になって緊急会見を開いたキムは、今回の発言を悔いた様子で、「私のインタビューによって多くの人が傷ついたと思う」、「深く後悔しているし、心からおわび申し上げたい」と目を赤くしながら謝罪。自身のインスタグラムのアカウントも、「本心から(ノ選手に)謝っていない」、「謝罪の真似までするのか!」などと激怒したファンの非難を受け数時間後に削除している。
今回の一件をめぐって大韓体育会は、2選手の代表チーム追放についてのコメントを控えているものの、キムのスポンサーを務めるアウトドアブランド、「ネパ(Nepa)」も、不買運動などの盛り上がりあったことで、今月末をもって契約更新を見送ると報じている。これについて、スピードスケートバンクーバー五輪の日本代表田畑真紀は以下のように述べる。
「3番目の選手がゴールタイムになるので、絶対置いてきぼりにしちゃダメです」。確かにキムのインタビューは、ノ選手をハナであしらったような、失笑すら浮かべた感じの悪い発言で、これは韓国国民ならずとも横柄な態度と感じられる。パシュートという競技は、通常なら途中で互いが風よけ、押し合いなど、助け合った末に最後の走者のタイムで順位が決まる。
競技終了直後のソウル新聞は、「おかしな光景を演出して準決勝への進出に失敗した」と伝え、以下論評した。「通常、3名の選手が一緒にお互いの速度を引っ張ったり支えてあげたりする呼吸でレースが繰り広げられる。にもかかわらず、韓国は競技の中盤からキム、パク選手が少し前に出て、最後の走者であるノ選手との差が開き、大きく離れて遅れてゴールを通過した。
いい記録、いい成績、それ以前に3人が団結できなかった姿に、競技を見守った国民たちは首をかしげるしかなかった」。同紙はチーム競技にもかかわらず、“記録の欲”という表現をしたパクのインタビューも問題視したが、その後の三選手の動向から、選手間に何かが起こっているとの推測はついた。同紙はノ選手が1月に「スポーツ朝鮮」のインタビュー記事を掲載した。
「昨年12月10日のW杯第4戦以降、平昌オリンピックに出場するまで団体パシュートの男女代表チームは、ただの一度も一緒に練習をしなかった」、「ひどい差別の中で練習にきちんと集中できる状況ではなかった」。同紙は、「韓国スケート連盟副会長の指導でキムを含む特定の選手だけが泰陵選手村と違う韓国体育大学で別に練習してきた」と、驚きをもって伝えている。
「この過程で代表チーム選手が分裂した。ノ選手は『村の外で練習する選手達は、泰陵選手村で寝食だけしたが、寝食だけで解決できるわけではない。スケート連盟はメダルを獲る選手たちを先に決めている感じがした。ひどい差別の中で練習にきちんと集中できない状況だった。昨年も、一昨年も続けてこうだった。それでもみんながもみ消している』」と内幕を暴露した。
これはもう、いじめの元凶が連盟上層部によって生まれたということになる。教師が学校で生徒を差別するようなものと考えれば分かり易い。日本にもそういうことがなかったとは言えない。かつて、「柔らちゃん」こと田村亮子に柔道連盟が特別待遇、特別扱いしたことに、表立った選手の不満はなかったが、国の至宝となると、ついついその様になるのは仕方がない。
もっとも身近な問題として、親の兄弟差別がある。同じ腹から生まれた兄弟を差別するのはよくないというのは、観念的には分かっていても、ついつい出来の良い子とそうでない子には無意識の違いが出る。出来の良いお姉ちゃんを誉めそやすのはよくないと認識しながら、出来の悪い妹にあれこれいうことは、間接的に姉を誉めそやすことになっているのだ。
それをひしひしと感じる妹である。差別意識がないから差別がないのではないということ。無意識の意識をなくするにはどうすればよいのかを、身をもって考えなければならない。身障者を子に持つ親でさえ無意識どころか、意識的な差別やいじめをするというから驚きである。好きで障害者に生れてきたわけではない、むしろ親のせいかも知れない。なのに親が子をいじめるという。
「親からたまにヒドイ言葉をかけられます。そんなときはいたたまれず、トイレや仏壇の前で泣いてしまいます。でも、それは私が障害があるのでしかたのないことです。親にはいろいろ迷惑をかけているので、親孝行はしたいと思っています。」など、彼女のメールを読むと、「子の心親知らず」に腹が立つが、肉親同士の甘えた関係は、あまりに率直な言葉に置き換わる。
心無い親を持った障害者は、社会だけでなく家庭内でも仕打ちを受けることもあるようだ。親が子を、子が親を殺めることを思えば、それほど深刻ではないが、障害を持つことで親に迷惑をかけるという気持ちに対し、そんなことは考えなくていいという姿勢でいるべきだが、健常者の子どもにさえ、育ててやっただなどと恩着せがましいことをいう愚かな親もいる。
親が子をいじめるなら反抗すればいい。いじめ加害者に「いじめないで!」といって、聞くはずがないのだから。「いじめをなくそう」などのスローガンは美辞麗句である。傍観者がいじめを見ても止めもせず、いじめ被害者が加害者に抗いもせず、ただ、いじめ加害者の改心を待つばかりという、そんな掛け声でどうしていじめがなくなろう。なぜ犯罪はなくならないのか?
犯罪が悪いことだからなくならない。人間は善いことより、悪いことをする方が楽しいだろうし、スカッと抑圧も発奮できる。なぜ、人間は悪をし、犯罪を犯すのか。ラスコーリニコフが老婆を殺したのはなぜか?小心でおどおどした自分から抜け出したい、強大でありたい、偉大でありたいと願うも人ひとり殺せない自分だった。彼は老婆を殺すことで、自分を殺したのである。
全ての犯罪は人間が孤独でいられないところから起こる。孤独を満喫できる人間は人を殺す必要がない。E・H・フロムはそれでナチズムの社会心理を証明してみせた。また彼は、『愛するということ』の中に、「大部分の人たちは、愛することの問題は、その対象いかんの問題であり、能力の問題ではないと主張する」と述べているように、人は誰も愛し、愛されたいと望む。
ゆえに、そうするにふさわしい対象の出現を待ち焦がれる。それも大事であるが、もっと重要なことは、自らが愛する対象を見出すことだろう。高価な石にしか美を見出さない人、容姿・容貌にしか触手が動かぬ人は多いが、いつも思うのは道端の小石に心を惹かれる人は身近な幸せを手にできる。毛皮の美しさより、色褪せた仕事着の美しさに価値を見出せるか…