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いじめは教育の問題か? ③

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いじめを受ける人間には、いじめを受ける何がしかの要素が家庭内で育まれたように、人をいじめる人間においても、当人が置かれた環境に問題があるのは明らかである。そうであるからこそ、いじめる人間といじめない人間が存在する。そうした雑多な人間が学校という社会に集まり生活し、展開していくが、学校生活と家庭生活は規模や中身や人間の種類がまるで違う。

などと考えると、大学の教育学部卒の原体験の未熟な教師に荷が重いのは当然のことと感じている。教師はタダの職業であって、教育者としての資質を持ち合わせていないという事実を認知しない親が多すぎる。「先生だから」、「教師だから」と、「だから、何なのだ」という視点の方が、教師の資質を言い当てていると自分は思うし、彼らに何の期待もしていない。

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親が我が子を誰かに託す以上、託す側に責任があるというのは、託せばその通りだが、託さぬ親にはその限りでない。仮にも託した責任をどう問う?というのは、問う側の問題であり、問われる側に発生する責任について明文化されたものは何もない。道義的な責任?そんなものは絵に描いた餅で、汚職や不倫をした政治家に、「同義責任をとれ」は、ただの掛け声に過ぎない。

刑事罰でも受けない限り、身分の保証された公務員をクビにするのは並大抵のことではないし、子どもに何かがあって、その挙句に退職させたとしても、それは彼らの不甲斐なさに対する処罰であって、生徒個人に対する責任の取り方ではなかろう。事後責任というのは、それも責任の取り方に違いないが、そんな責任は取るのが遅かれしとなりはしないか?

ある教師が結果的に無能と分かった後では、すべては遅きに失すということ。では、無能でない教諭というのは有能なのか?そうではなかろう。無能という烙印を押されないままに教師を続ける多くの教師は、普通の人ではないだろうか?無能は失態の後で分かるが、有能は何で分かる?保護者の評判か?子どもの口からか?宛てにできぬものを期待するより普通と思えばいい。

それが自分の考えであった。教師たちと雑談の中で、「先生たちには何の期待もしてないし、だから責任もとらせない。取る必要もない」とあからさまに口に出していた自分である。悪口でもなければ、教師を無能呼ばわりした言い方でもないし、そんな風にいわれて顔色を変える教師は、少なくとも知る限りにおいてはいなかった。もっともその後に言葉は続いた。

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「子どもの責任は100%親にある。親が取るべき」と、これは親の自負心である。親以上に我が子を把握する者が、どうしてこの世にいよう。寝食を共にする同士である。ただし、知るというのは主観的であってはならない、親バカでもバカ親であってはならない。知るというのは客観的な視点も大事であるのに、我が子可愛さのあまりか、我田引水的になる親が多いのも事実。

自分は我が子を、「知る」ということにおいて、子どもを客観的に見る目が養われない以上、「知る」に値しないと感じていた。分かり易くいうなら、他人がやって許せないことも、我が子なら許せるではなく、他人がやって許せないことは、我が子も同じく許せないということ。さらにいうなら、他人がやって許せないことを、我が子がやろうものなら、他人以上に許せないとする。

それが躾(教育)ではないかと思っている。そういうことは多だあろうし、そういう親こそが理知的な親だと思っている。つまり、他人のことに責任は持てない以上、他人のやることにいちいち文句を言っても始まらないし、文句を言って改められるものでもない。ところが、自分の子が誤った行為をするのは、どこにも言って行くことのできない、明らかなる親の責任である。

と、このように分かり易く記せば、分かる人には分かるだろう。あとは実行あるのみで、自分はそこまで強制はしない。批判する者もいてしかりである。他人は許せないが我が子なら許せるという場面をしばしば見るが、これも親バカ、バカ親の類と黙認する。たまにスーパーの店内で鬼ごっこをする子どもに強い口調で注意するが、注意とは効果をあげるためにやるものだ。


やさしく、穏やかにいうのは注意というより一人言である。相手の親がどう思おうと知ったことではない。昨今は廃れた社会教育としての自分の存在を認識する時でもあるが、「人の子を注意するのは面倒くさい」という世の中の流れをひしひし感じることがある。ただし自分は、「面倒くさい」という言葉が好きではないので、その意識が芽生えたときは、正しいことをしようとする。

「怒らない親を目指すだと?」立派なことだがバカ言ってんじゃないよ、注意と怒るは別だろが。人間がどれだけ他人に関われるか、個人の力など多勢の他者には屁のツッパリにもならぬが、同じことを30人学級の教師に対して思う。「糞と勉強は自分でするもの」という言葉があるが、それに「躾(教育)」を加えれば、自己教育力は実を結ぶ。なかなか自分が自分を律するのは難しい。

ならばせめて我が子くらいは親が全責任を負うべきと感じる。学校のことは親が分からないのだから、教師に委ねるしかないというのも自分的には認められない。所詮、親と子どもが相対する時間など、四六時中であるはずがないのは分かり切ったことで、だから親がいないとき、親の目が届かぬところでも、子どもが不測の事態を起こさぬよう、粗相をしでかさぬようするのも親である。

親のいないところであったことを親は知らなかった、だから関係がないといえるだろうか?芸能人を親に持つ子どもの不祥事について、未成年ではないのだから親は関係ない、謝る必要もないという声がある。周囲はいろいろなことを言いもし、感じもするものだが、その子の問題はその親が判断することで、その判断に他人があれこれいう必要がどこにあるのだろう。

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「親は関係ない」、「謝る必要がない」という親が子どもの不祥事に際してそう対処すればいいのであって、誰がいったか近年の一億総評論家のご時世らしき風潮である。「一億総白痴化」といったのは大宅壮一だが、「一億総中流化」、「一億総評論家」は社会用語である。大宅はテレビの出現を機にそう述べたが、「一億総評論家」は、芸能人コメンテータのこと。

教師は人を育てる使命を負うが、こんにち社会における教育の最大の欠陥は、子どもが子どもらしさを放棄し、一足飛びに大人になったこと。いや、大人にそう要求させられていること。子どもが生まれた途端に世界文学全集を買い、3歳頃になると〇〇大学付属幼稚園を意識する親。こういう大人はある意味子どもで、こうした子どもじみた大人が大人じみた子どもを望む図式にある。

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