Quantcast
Channel: 死ぬまで生きよう!
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

いじめは教育の問題か? ②

$
0
0
子どものいじめは主に学校で起こるが、学校に子どもの集団が多いからであって、いじめの本質的な責任は学校だけの問題ではないと考える。学校で起こったというだけで批判の目は学校にいくのは仕方ないにしろ、親にも責任があるといおうものならマスコミも個人も批判の矢面にさらされる。人の親として自分はいじめられる子の原因の多くは親にあると思っている。

親の自己責任にすることでいじめの認識が高まり、子育て過程においてもさまざまな用心や、あるいは対策を立てることもできる。先日の記事では中3で自殺した中島菜保子さんを取り上げたが、彼女の件についても考えるところがあった。報道による情報だけで深い事情は分かりかねるが、分からないなりにも想像するなり思考は働くから、ある程度の考えもまとまってくる。

イメージ 1

彼女は将来ピアニストになろうと猛練習を積み重ねていた。本人自身がピアニストになろうという強い意志と決意に裏打ちされていたかどうかは分からない。が、映像で彼女の奏法を観たり、演奏を聴く限りにおいて、相当の練習を積んでいるのは分かる。シューマンの「飛翔」を弾いていたが、ややテンポは遅いとはいえ難曲であり、ショパンのエチュードしかりである。

将来ピアニストを目指そうとピアノに取り組む子が、どれほどのいじめにあい、苦しんで自殺したというなら、あまりにピアニストの夢は淡く儚いものだったのではというしかないが、ありがちなのは本人よりも親が夢を託したりのケースで、彼女の場合がどうであったか断言はできない。それも含めて自殺原因を調査した第三者委員会が、その辺りに関心を抱くのは当然かと。

菜保子さんの両親はハナからいじめありきを前提とした調査を要望しているようだが、学校や家庭の両面から調査するのが当然で、それが菜保子さんの両親は不満であったようだ。気持ちは分からぬではないが、彼女の精神的な重圧がピアノや親であったかを解明する必要はあった。菜保子さんの父は、いじめとは関係のない調査に怒り第三者委員会の解散を要請したという。

予断と偏見を排して正しい調査をする以上、触れられたくないこともあろうが、いかなる調査をも静観し、協力すべきはなかったか?娘の自殺はピアノのことではないというのは親の視点である。生計を共にする親としてみれば、ハードなピアノ練習を強いたのでは?との認識も含めてすべてのことを冷静受け止める必要がある。最大の問題は何が彼女を追い詰めたかである。

イメージ 2

第三者委員会は、「直接的ないじめがあったという事実は把握できませんでした」との結論したが、父親の側は、「親とか家庭に自殺の原因があったと結論づけようとしているなと感じた」と批判的であった。勉強であれスポーツであれ、子どもに何かを強いる親は、己を客観視できないものだ。自分にも思い当たるフシがあるからか、菜保子さんの気持ちはよく理解できる。

クラシック音楽を勉強する以上は、クラシック音楽以外の音楽に興味を持たぬようにすべきという考えが当時の自分にあったのは間違いないし、テレビも邪魔物でしかなく線をつながないで映らないようにした。当然ながら親もテレビを観なかったし、我が家の団欒はテレビではなくレンタルビデオや、撮りためていた膨大な映画やアニメなどの録画であった。

家庭用ビデオが発売されたと同時に、この文明の利器にただならぬ関心を抱いた自分だった。当時のビデオソフトは120分ものが1本4800円だったが、10本単位で購入し、将来のためにとビデオライブラリーを目指していた。撮っておかなければ二度とお目にかかれないという切迫感が録画に拍車をかけたが、レンタル全盛の時代になろうという予測はまるで無かった。

ギャンブルに数百万を投じた話は珍しくはないが、数台のビデオ機材やカメラを含めた投資額は半端なかった。1981年にはナショナル製の最高級機NV-10000番(定価430,000円)を惜しむことなく買ったが、道楽というのは趣味を超えた狂気の世界であるのが今なら分かる。撮りためた数百本のビデオはすべてカビが生えたりテープが伸び切る、切れるなどでゴミ箱行きとなる。

イメージ 3

暴走族や不良が年を重ねて、バカだったと分かるように、若さというのはバカだというのがつくづく分かるものだが、それに気づかないこともバカという二枚重ねである。「バカに金と力を持たせるな」というのも全くその通り。ただ、バカはバカなりに時代を楽しんだのは間違いない。ノスタルジーなんてのは過ぎてみれば実感は薄いが、薄いなりにも記憶の隅にあるものだ。

曽野綾子の『太郎物語』には、テレビを庭に投げるシーンがあるが、親が子どもに本気で向き合う一場面として印象深かった。それで、テレビが害悪と思えば観ないとするのが自分流である。極端というほどに徹底していたが、ふと目を覚まさせてくれたのが近所のN爺さんだった。爺さんはある日突然自宅に来てこういった。「ワシはビックリしたんじゃけど…」

「何ですかいきなり?」、「あんたとこの子は、志村ケンを知らんのよーって、孫がいうとったが、何でと聞いたらテレビが映らんからといったという。今どき、志村ケンを知らん子どももどうかしとるで…」。N爺さんは、他人の余計なことばかり触れ込むという噂で近所の評判はよくない人だが、この時もその様に感じた。おそらく嫌味を言いたかったのだろう。

その日の夜、自分は娘に問うた。「中塚のじいさんが、志村ケンを知らん子がおるといってたけど、何かいわれた?」、「一美ちゃんの家に遊びに行って、そんな話になって、ドリフとかは名前は知ってるけど、見たことないといったらみんなに笑われた」。さすがに自分はショックだった。目線を子どもに置いた時、そんなことでこの子が人から笑われるのが忍びなかった。

イメージ 4

大人の考えや都合で子どもにナニがいい、カニがいいというのは明らかに間違ってると思った。この子は学校でも子どもの世界観についていけないだろう。それで孤立するのは分かり切ったこと。そうさせるのは親の責任である。ピアノを一生懸命にやるのは、親から与えられた課題であり、だからとそれにひたむきになる娘を、親は本当に喜ぶべきなのか?という疑問だった。

ピアノをやるのはいい。どんなに難しいことでも一生懸命にやればモノにできるということを体験するのは間違いなくプラスになる。が、子どもには子どもの世界観もあり、それを親が搾取するのはあまりの親の傲慢である。自分は実母を傲慢として反抗したが、むしろ反抗できないこの子の方が憐れではないかと。そんなことが頭を巡りだし、遂にテレビを映るようにした。

おそらく菜保子さんは孤立していた。彼女の日記にいじめの文字はない。「友達がいなくなるのが怖い」とある。自分の解釈では、菜保子さんは友達とは別世界に住み、それを察したり感じたりの友達は、菜保子さんを必然的に敬遠していたのではないか?特異な能力を持つ人間には、周囲が寄り付かないということはしばしばある。菜保子さんはそれが淋しかったのだろう。

見るからに優しそうな菜保子さんの母親であるが、それはあくまで表面的なもの。娘のピアノに関して夜叉のようになるのかも知れない。周囲はそのことを察知していたこともあったようだ。子どもには子どもの世界があるが、親がそれを封じ込め、娘はピアノを一生懸命やるよいこにしか映らないなら、その親から子どもは離れていくだろう。彼女は不満の思いを日記にしたためた。

イメージ 5

親には厳しさも必要だが、反面、保健室の養護教諭であるべきだ。親を満足させる喜びは子どもにないわけではないが、一人娘を自分たちの生き甲斐と錯覚し、依存し、期待し、身勝手な夢を描かれるのは、子どもに耐えられない重圧となる。親は親、私は私と、自他の境界線を持たぬ子は自我の同一性に悩み、鬱を発症する。自分はあくまで自分でなければならない。

話の合わない子を避けるのは無視というより、当たり前の行為であろう。それが菜保子さんにとっては、無視や仲間外れといういじめに思えたのではないか。思えば我が家の長女は、特技をハナにかけない、明るい、という友人評を聞いて安心した。それはそれ、これはこれという自分の考えが浸透していたのだろうが、菜保子さんはナイーブすぎたのかも知れない。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

Trending Articles