泣いた女がバカなのか 騙した男が悪いのか
褪せたルージュの唇噛んで 夜霧の街でむせび哭く
褪せたルージュの唇噛んで 夜霧の街でむせび哭く
西田佐知子のヒット曲『東京ブルース』の女が泣く場面には、「泣く」と「哭く」の二つの文字があるが、「哭く」は当て字であろう。「慟哭」とは、悲しみのあまり声をあげて泣くことだから、そういう状況だろう。女が泣くのは「男泣き」ほど稀有なことではないから、嫌というほど見せつけられた光景だが、「見せつけられた」のが二人の場合ならまだいい。
男女が数人入り混じった場面で、これをやられると男は困る。泣くだけならまだしも、靴も履かずに素足で飛び出していく場面もあった。冷たい冬の路面に靴も履かずに素足で(パンストは履いていたと思うが暖の効果はなかろう)どうなる?玄関で靴を履くくらいの判断はあってもよさそうだが、それをしないところが、「我を忘れて飛び出した」という効果は高い。
「我を忘れて」もいいが、靴を履くのを忘れてはダメだろう。こういう時の女の感情はどこまでが演技でどこまでが忘失状態か分からない。その女以外は誰にも分からないだろう。そういう感じで跳び出せば、きっと男は追いかけてきてくれるという思いもあるのか、それすらないのかも分からない。人前でそれをやられたとき、「行ってやれよ」と友人はいった。
「いや、放っておく」と自分はいったが、自分のその態度をみた同僚女性が後を追い、連れ戻してきた。あの時そうしなかったら、彼女はどうしたのだろう。わからない。「あの時、ああしなければどうなっていたか?」というのはいろいろあって、しなかった場合についての答えは、想像するしかない。「歴史に"たら"はない」といわれるが、日常においても"たら"はない。
「ダメだろ?女を泣かしては…」戻ってきたかのように、女への同情言葉を投げかける友人たちだが、こういう場合のお決まり言葉である。「泣かしてなんかない。勝手に泣いただけ…」などの言葉を返すのは大人げない。だから男は黙っている。「泣かせた方が悪い」という風潮は間違いなくある。だから、泣いたものが勝ちというなら、どういう勝ちだということなのか?
「泣けば悪いのは相手」という意味と自分は捉えている。泣いた側に罪があっても、泣けばその罪は一転して、泣かせた側に移ってしまうというなら、そんなバカな話はないし、こんな理屈は通らない。思えば実母とのバトルで嫌というほど体験させられた女の泣きの理不尽さである。それで得た結論は、「泣こうが喚こうが悪い方が悪い」というものである。
泣いたもの勝ちというルールはスポーツにもない。負けて泣くのも勝って泣くのも個人的な事由による。競技中に泣いて試合が止められることもないし、泣けばどうするという競技ルールもない。同じように、恋愛ゲームにおいても泣けば勝ちというルールなどない。が、泣きは反則行為に等しいと自分は感じている。それは、男の暴力が反則であるようにだ。
「女が泣いた時にどういう処置をとるかで男の優しさが試される」という女性エッセイストの一文を見たとき、こんなことを書くから誤った優しさが世の女に喧伝されていくのだろうと思った。女が女の都合で書いたり物申したりするのはそれはそうかも知れない。男の論理に女が承服しないように、男女が相容れぬ状況判断というのは、それこそ山のようにある。
それが「男の見方・女の見方」として、あれこれ書かれている。どちらの主張が正しいかを判断するのはオカマが適切ということもないし、「ところ変われば品変わる」というように、同じにんげんでさえ国や主義によっても善が悪に、悪が善になる。この世に絶対的無謬がないように、善悪も相対的であるなら、正当性について正しく検証するというのは、実は難しい。
かくて残された手段は話し合いによる妥協である。夫婦や親子や恋人同士のゴタゴタは、犬の餌にもならぬようなものが多いが、哲学者を必要とするような無理難題を解決する時によく使われるのが、「人間性」、「人間味」、「人間的」という便利な用語であり、それを基にするのは、「法外の法」というものになる。これは哲学用語などで以下注釈を入れておく。
法治国家の裁判における判断は法をすべてとするが、遠山の金さんではないが、義理・人情を旨とする日本社会には、たとえ満場一致の議決ですら法外の法を無視することを得ず」という断固たる不文律がある。それが情状酌量という判断となって、人間味のある名判決となる。親の傲慢支配から逃れるがための親殺し、レイプを忌避するために思い余っての殺人などなど…
それに比べれば夫婦喧嘩や恋人同士の痴話喧嘩などは、早々に妥協して解決すべきであろう。自分は切羽詰まった状況での女の泣きは、上記した男の暴力と同等のルール違反と定めており、泣きに左右されることはない。子どもの聞き分けのない泣きも敢然と無視したように、躾の類というのはその場その場の状況で変えてはならない確たるものであるべきと思っている。
親の都合で決まりを変える時に、「親バカですから」などというのは、とんでもないこと。心を鬼にしても決めたルールは守らせないと、躾はできなくなってしまう。「一貫性」というのは、己の情に対する挑戦でもあり、動かぬ姿勢を貫くことで、相手に諦めさせるのを意図する。ごねてもダメと分かったら子どもはごねない。泣いても無意味と分かった女は泣かない。
躾と教育は同じといえば同じものだが、以下は違いを指摘する記述。「躾は道徳的観念に基づき、社会的な規範に則った行動を取るように行動を誘導、あるいは強制する事」。「教育は基本的人権に基づき、精神的、肉体的な成長を促すために必要な知識、経験を与える事」。「躾けとは、教育を受けた結果、得た学びを実践する過程において、常に正しく実行できるように、習慣化させてあげること」。
「教育とは、何をするべきか?何をなすべきか?そして、それはなぜか?…を本人が自ら気付けるように関わること」。躾と教育の違いを前提に記せばこうなるが、厳密に分けることに差ほど意味はなく、的確・適切な方法を対象に用いればよいだけのこと。大事なことは、施す側に安易な例外を認めぬ毅然とした自制心であり、それなくば一貫性が失せ、効果は落ちる。