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Channel: 死ぬまで生きよう!
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学ぶ力

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自分と他人は違うが、視点を変えれば自分は他人、他人はまた自分と述べた。当たり前に思えることも、当たり前でなかったりするところが面白い。当たり前は奥が深いのだ。至極簡単なこと、当たり前のことを見下げた物言いをする人がいる。黙って聞き流せば何も起こらぬが、そこに問題意識を持つことで何かが変わるきっかけとなる。それが感受性というものだ。

「なぜ他人(の考え)は自分と違うのだろう?」という素朴な疑問を意識したとき、自分が普通で他人がおかしいと思ったのは、年齢的につたなかったからだろう。そう結論すれば簡単に納得できた。年齢を経てもそうした考えの域を出ない大人は多い。自分と違えば、「あいつはおかしい」となるのはもっともらしいが、自分がおかしい場合もあるわけで、だから思考が必要となる。

将棋で相手が指した手を、「その手はおかしい」、「変じゃないか?」などと思うことがある。思うだけでなく実際正しくない手であるのは、棋力の低い人に見られる。が、「その手はおかしい」と思った相手が上級者もしくは格上だったとき、説明を聞くと素晴らしい手だったりする。これはつまり、「その手はおかしい」と判断する自分の方がおかしかったということだ。

「あいつはおかしい」は、「自分がおかしい」のかも知れない。そこの根拠を自ら把握するための思考である。簡単に捨て鉢な言い方をしても、バカは自分だったりする場合がある。世の中は、社会は、自分中心に動きやすいが、自分が間違っていると相手から指摘されても、納得できるものではない。しかし、間違いを納得できないと突っ張るだけではただのアホだ。

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そこで大事なことは冷静さと検証である。自分は他人と違う。ゆえにどちらの考えが正しいのかをじっくり検証する時間がない場合、言い合いになるのはよくない。そんなのは不毛であり、時間のムダである。ディベートの様な論理による脳トレならいざしらず、ディベートの本質は結論を求めないことにあるが、結果を求めての言い合いは、草も生えぬ荒地であろう。

人間は自分を他人より尊ぶがゆえに、不毛の論争をやってしまう。思うに人は、「自主的思考重視」と、「知力重視」に分けられる。前者にも知力はあるが、後者に及ばないものだから、まともにやれば論駁されるのが必然となるも、逃げの手段をいろいろ用意する。女性がよくやる、「そんな難しいことを言われても分かりませ~ん」で、これは感情論で話そうということだ。

相手は逃げの一手を打っているのだから、これ以上は噛み合わないとこちらも逃げるが正解。「意味がわからない」、「自分が正しいと思ってない?」、「だから何なの?」もっとヒドイのは泣いてしまう。泣くのがヒドイ理由は、泣いてる場合ではないからだ。これは明らかに反則だが、反則を犯してでも勝とうとする、意見を通そうとする女性にどういう薬をつけるべき?

「泣く子と地頭には勝てぬ」という名言がある。子どもが泣くのは無視できないし、あやさねばならぬ。地頭は権力を嵩に物をいうので抗えない。が、大人の女の泣きは武器であるから、眼には眼をで対抗すればいい。思い余って、行き詰って泣きという武器を出すのは、男の暴力を非難すると同じ理屈であり、同情ではなく非難しないことには収まらないだろう。

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実母も最終手段は泣きだった。向かってくるより、泣かれることの方が自分は腹が立った。「泣いて同情してもらおうなんて冗談じゃない」である。「女の涙に男は弱い」という。「男の暴力に女は弱い」などもいうが、「弱い」の意味が違う。オカマは別にして、この世は男と女の世界だから、理解し合えない同士が、全人的に妥協して上手くやっていくしかない。

人は自分と他人を比較することは多いけれど、そんなことをすれば劣等感が増幅するだけだ。それが分かっていても自分と他人を比較するのは、比較して劣等感を持つというより、劣等感があるから比較をしてしまうのだろう。不幸な人が他人を羨むように、幸福になれば他人と自分を比較して羨んだりしないが、逆に人を見下すようになる人もいたりも困ったものだ。

卑屈にならないために人と自分を比較しないのがいいが、自分と異性を比較するのはむしろ相手理解のためになる。自分は男だから、「女はワカラン」と簡単に結論を出すよりも、分からんことを分かろうとするのも、「考える葦」としての領域である。あれだけ強い羽生永世名人が、「将棋は分からない」という。奥が深く分からないから熱中できる。異性も同様である。

人と人は依存しあうところも良い。ペット可愛さに依存する人もいるが、依存も深入りしない方がよい。自分は依存心の強い人と上手くやれると思わない。なぜなら、そういう人と上手くやるためには相手に自分の生き方を支配させる必要性が生じるからだ。心の病に罹患してる女性は依存が強いわりに、相手を幸せにすれば自分も幸せになれるという発想がない。

イメージ 4自分が幸せになりたいためにそれを阻む障害を排除しようと、強力な自己中心主義となる。与える愛情はなく、求める愛情に終始するばかり。45年前に20歳だった彼女は心を患っていた。そのこと自体が問題とは思わなかったが、彼女とちょっとしたやり取りから感じたのは、こちらが決して、「幸」状態にはなれないことだった。
自分で感じたことを他人に吹聴することではないが、別段個人を特定したわけでも、心の病に罹患した人たちを蔑むわけでもない。鬱病罹患を告げられた時さえ、何の躊躇いもなかったが、問題は実直な相手の感じ方である。鬱で心療内科に通院し、抗鬱剤を服用する人は気の毒だとは思うが、気の毒だと思うことを自らに反映しない無意味な同情はよくない。

相手を理解することで我慢を強いられ、思考や行動を変革せねばならぬを今さら求めない。だから、疎遠であることが最善と感じた。人と人が自然に疎遠になるケースは世の中の常であるが、それはよくないからと勝手に解釈し、無理を強いて交流を続けるのもストレスを生む。武者小路実篤は、「天に星、地に花、人に愛」という色紙を好んで描いた。

言葉の出典は彼でないのを知ったが、自然には自然の美しさがあるように、人為にも人為の美しさがあるということだろう。「天に星」、「地に花」という、比類ない表現に感心させられ、改めてこれについて所感を述べたくなった。いじめを好む人間に、「人への愛」の気持ちを持てないものだろうか。そうした優しい気持ちを育むのが親の子どもに対する使命ではないだろうか。

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