過去、どれだけ多くの子どもたちがいじめで命を捨てたことだろう。寄って集って弱い者いじめをする者たちには無性に腹が立つ。いじめられる子にはいじめられる要素があるという。だからいじめを受けるのだろうが、そうではなくて、手籠めにできる相手を尊敬できるか、対等に感じるられるか、そのことが人間が育まなければならない人間らしさではないだろうか。
「敗者をいたわる美学」という言い方をするが、平昌冬季五輪のスピードスケート女子500メートルで金メダルに輝いた小平奈緒に美学の意識はなく、敗者へのいたわりも、心ならずも逝った同僚に対する思いも、彼女の人間性から培われたもののように感じた。スポーツを通して得た栄誉であるが、「今後問われるのは人間としての生き方」という彼女の発言は心に残る。
人は否が応でも集団に身を置き、集団の中で過ごすことになるが、集団に身をおくということは人と関わるということだから、集団が好きな人は人が好きだろうし、集団を好まぬ人は人嫌いなのかもしれない。そういうことを周囲は敏感に察知する。人には二種類ある。自分と他人である。自分は自分、他人は他人なのは当たり前な言い方に思うが、実は自分も他人である。
即ち自分は他人から見れば他人ということは、自分という人間は、自分と他人の二つを生きていることになる。したがって、自分の生き方と自分を他人に見立てた生き方がある。自分は他人でもあるということを頭に置いている人とそうでない人の生き方は違ってくる。自分は他人でもあるという見方をする人は、気配りなどができる人で、バランスを上手くとりながら生きている。
自分が自分であることに気づくのは難しくはないが、自分は他人でもあるということに気づくのは、強く意識をしなければならない。「自分は自分であって、自分以外のなにもでもない」という言い方をするが、ある意味正しくある意味間違っている。上記したように、自分は他人でもあるからだ。同じように自分以外の他人も、実は彼らにとっては自分なのである。
したがって、自分の友人のAくんは他人であるけれども、Aくんにとっては自分であるから、Aくんの気持ちに重ねてAくんの主体性を意識することも大事である。Aくんは他人、しかしAくんは自分でもあるという見方を両立させることで、自分と他人は手を取り合える。自分が他人であると意識したとき、視点はAくんから見た自分が見えている。これを客体的視点という。
世界を構成するものとして、「見るもの、知るもの」を主体といい、「見られるもの、知られるもの」を客体という。自分から見る他人は主体的に見るが、自分を他人の視点から客体的に見ることもできる。したがって、主体は意識であり、客体は物という言い方をするが、認識論の領域においては、主観・客観と区別されている。少し難しくなったが、難しい部分ははしょる。
「自分を客観視すれば心の平穏が得られる」と松尾芭蕉は述べているが、どういうことかといえば、紆余曲折の末に芭蕉が辿り着いたのは、「風流の精神」である。芭蕉は元は武士の出であったが、武士の地位を捨てて俳諧師の道を歩み始めたのは23歳であった。主君の死に遭遇した芭蕉は、「二君に使えず」の精神を大事にし、主君の家から去ったといわれている。
下が上を斃して一躍出世する下剋上の時代は去り、主君の死に遭遇して武士の地位を捨てている。ここにいたって芭蕉は、苦しみや悲しみに立ち向かうこともせず、さりとてイジけて嘆くようなこともせぬ道を歩み始める。そんな事情から到達した、「風流の精神」だった。疾病で十分な療養もできない苦しみの時でさえ、「風流の精神」で俳諧の素材として眺める。
激情や悲哀といった感情が最も起こるはずであろう時ですら起こさず、その状況を他人事のように眺めることで、心の平穏を得るということ。そうした理知的な現実逃避から辿り着いた、「風流の精神」は、極めて強い精神力を要する思想となった。それほどに自分を完全に客観視するなど凡人にはできかねるが、苦しむ自分を客観的に眺めることは訓練次第でできるだろう。
同様に、他人の苦しみを我がことのように受け入れ、共に苦しみ、涙することも訓練によってある程度は可能になる。「主客一体」という言葉が茶道にある。「一座建立」ともいわれるが、招いた者(亭主)と招かれた客の心が通い合い、気持ちのよい状態が生まれる状態である。主客に一体感を生ずるほど充実した茶会となることをいい、茶会の目的の一つとされている。
茶道も奥が深いが、本日の表題はいじめについてで、いじめも奥が深い。いじめの定義は曖昧だったが文科省は、「一定の人間関係のある者から、心理的・物理的攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」をいじめの定義とした。「いじめてない」といっても、受けた側が「いじめられている」、「ショックを受けた」という状態であればそれがいじめになる。
セクハラも児童虐待も受けた側の認識を基本とするなら問答無用である。ただし、子どもの場合、悪ふざけといじめの判別が難しい。そこで、①反復性、②同一集団内、③故意、④立場が対等でない、⑤傍観者がいる、などから判断されることになる。いじめも奥が深いといったが、それは構造上においてである。いじめは集団の場合がほとんどだが、一対一のこともある。
集団いじめの場合、外から見てリーダーかはっきりわかる場合と、リーダーの判別が不能の集団などのケースがある。近年はいじめ側の集団の中から、あらたないじめが発生することもある。何のことはない、昨日までは仲良くしていたけれど、ある日突然いじめられる側になるという。人間関係は希薄で流動的であることが、こうしたことに現れているようだ。
⑤傍観者の心理も複雑だ。自らは何もしないかわりに、いじめられている人を見て、「いじめられる側も悪い」、「仕方がないことだ」と、自己正当化する者もいれば、「かわいそうだ」、「なんとかしたいが勇気がない」、「下手に関わってとばっちりを受けるのも…」と、これは消極派で思考である。何もしない点においては、自己正当化組と何ら変わりようがない。
自己肯定派はいじめ当事者に近い心理状態の傍観者であるが、観客派という者もいる。「自分には関係ない。所詮は他人のこと」と、これは自らも属している集団や組織で起こっている出来事に対して無関心で傍観者を装うのは、共感性や社会性が欠けている現れでもあるが、自分以外の他人をまるで風景を眺めているかのようなニヒルな人間が多いのがこんにちの時代である。
無関係の自分がターゲットになるのは嫌なものだし、可哀そうと思いつつ何もで着ない人間に、勇気と正義感を植え付ける方法があるのだろうか?勇気と敵愾心をどう育むかは、何はともあれ自分が強くあらねばならない。精神の強さ、腕力の強さ、それらをどう育むかの方法はないわけではないが、個別主体性の問題であろう。宗教的バックボーンに委ねることもある。
人間の自尊心は変な方向に傾くこともある。自分がいじめられていることを認めたくないという、屈折した倒錯心理はなぜ起こるのだろうか?主に解決のターゲットが見えない場合に起こり得る。教師や親や友達に相談しても、何も変わらないだろうという八方塞がり的諦観が、事実を事実として認めたくない心理に陥る。そういう時には最悪、「死」という逃避に望みを託すこともある。
もっとも避けねばならない死、などといったところで、当事者の思いではなく他人の思いでしかない、「もっとも避けねばならないのが死である」ということを、当事者に知らしめること、伝えること、あげく伝わってこその価値観であり、伝わらぬなら絵に描いた餅である。自殺を食い止める方法があるなら、情熱ある大人が当事者と対座してとことん話し合うしかない。