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いじめは一知半解なり

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野球の場外ホームランは普通のホームランより声援が大きく、それだけ価値が高い。日米プロ野球におけるホームランの最高飛距離はヤンキースのミッキー・マントルが1960年にデトロイトで打った推定距離193mで、ギネスに登録されている。日本のプロ野球で最高飛距離のホームランは、2005年6月3日、アレックス・カブレラが西武ドームで打った推定180mと記録されている。

場外ホームランは野球の醍醐味かも知れぬが、ブログをやっていると時たま場外コメント舞い込むことがある。記事欄のコメントとちがって中傷や雑言が多いのは、気づかいというより、小心者の姑息さであろう。誹謗・中傷に気づかいなどはなかろう。それらとは別に共感メールもあるが、私信にするのは羞恥心からか。一度だけのものもあるが交友が続くこともある。


今回の場外メールは、小泉今日子擁護の自分の意見が気にいらないようで、フィフィの意見を真っ当と押し付けるなどは慮外者。誰の考えが気に入らない、誰の考えが自分に合うなどは個人的なことで、一人で思っていればいいこと。まあ、それをやり取りするのがコミュニケーションというものの、意見を言い合う、出し合うはいいとしても、押し付けがバカげている。

思えば自分も若かれし頃は他人に意見を押し付けていた。今に思えばバカだった、無知だったと反省する。多くの知識を拠り所にし、だからといって他人に知識を押し付けるのは、無知であると今にして思う。自分はこういう考えを所持するとの自己把握をし、それを述べても他人に押し付けぬよう制御はすべきである。が、ブログに文字で書くことを押し付けと感じる人もいる。

子どもから大人に成長し、社会の価値観が大きく変節し、斯くの情況が大きく変わっても人の思考図式は、物心ついた時のまま残っていることはある。変わらねばならぬことが変わってないということは、その人がまともに成長していなかったということになろう。本を読み、他者と交流をしても、他人に影響されないままに育った人は他者を頑なに受け入れなかったのだろう。

「孤独なる懐疑主義者」といえば言い過ぎだろうが、思考に柔軟性がない人は世の中に多い。例えば、戦争中に幼児時代を送った人は、物心がついた時は戦後となり、表現や行動は形の上では戦後であれど、幼児期に叩き込まれた図式は戦時中のままの世代を、「焼け跡派世代」という。「三つ子の魂」は永遠というのはまさに正鵠を得ており、後に大きな影響を及ぼす。

イメージ 1何につけ自分の意見を言わねば気の済まぬ人は、良く言えば問題意識を持っている。して、自論を披露するだけでは物足らず、押し付ける自制の無さに抜けきれぬ幼児体質がある。「自分も不愉快、相手も不愉快、しかも大きな損失を受けながら、なお、行わねばならぬこともある」という規範はあるが、芸能人如きの不倫などには当てはまるまい。

誹謗・中傷の私信に無視を決めること多く、コメント欄があるのにわざに私信の理由は怖れもあるのだろう。何をいうのも自由だが、やり返されてしまってはの危惧と見受けるが、だったら黙っておくのも大人のたしなみというものだ。「沈黙は金」といい、さすれば吐いた唾を飲まされることもなかろう。「溜飲を下げる」という慣用句もある。

溜飲を下げるとは、不平・不満・恨みなどを解消して気を晴らすこと。「相手を論破して溜飲を下げる」などと使う。自分もそうだったが、今は人を打ち負かして悦に入ることはない。今回のフィフィはあまりに他人の価値観に立ち入り過ぎたことに腹を立てた自分だ。それに対する共感・応援エールも、集団ヒステリーが如きであり、自分的には看過できぬ様相であった。

当ブログで出会って現在も続いている最長メル友は8年2か月に及んでいる、現在私信のやりとりするのは彼女がオンリー・ワン。パソコンメールの良いところは、機種を変えない限りはトレイに残るところだが、2009年12月12日にもらった第1信には、なぜかキョンキョンについて書かれてある。小泉は彼女と同年代女性だから同じ髪型にしたとかの会話の流れと記憶する。

自分は携帯メールをしないPCメール派で、PCメールは古い受送信トレイから懐かしく閲覧ができるところがいい。またPCの画面の大きさがどれほどの長文であれ、スクロールなしで一気に読め、さらには両手キーボードによる文字の打ちやすさもあって、長文派の自分は携帯メールなどやる気がしない。携帯の何が便利なのかよくワカランが、持ち歩きなのだろう。

自分は出かけるときに携帯を持ち出すことはない。友人、知人に教える電話番号も家電にするが、相手のほとんどは携帯番号を言ってくるし、もはや家電はジュラ紀の化石のような遺物のような言い草をする。それほどに人には便利な物でも、自分にとってはそれほどに邪魔な物。在宅時に鳴る電話はともかく、外出先まで追い回す携帯は自由主義者にとって煩わしい。

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長いこと携帯を持たなかった理由を、「行方不明になれないから…」だったが、家族にとっては不便であると子どもらに強制的に持たされたが、当初は有難迷惑と思っていた。いつ頃かも忘れたが、所持する機種softbank製830Pの発売日は2008年11月だから、2009年2月の誕生日に手渡されたことになる。携帯電話の批判記事は、07年10月3日、08年3月3日に書いている。

時代遅れの自分だが、便利な物は便利、不便な物は不便である。こんにち携帯は便利な時は使い、不便な時は使わないという至極真っ当な利用をしている昨今だ。個人的な携帯についてはともかくとして、一人暮らしで電話もなかった時代が懐かしい。若い時は公衆電話の3分10円の出費も痛手であり、彼女と話すためには会うしかない。それはそれでよかった時代でもある。


互いがやりくりして時間を作り、点と点の距離を必死でつなごうとという、そのいたいけな情熱が良かったのかも知れない。電話の会話で簡単に済まそうなどはなく、人間自体が行動するものであることを認識させられた。携帯はコミュニケーションとして比類ない便利なツールといわれたが、携帯で済ませよう、済んでしまうコミュニケーションの希薄さに人は気づいてきた。

何はとも携帯の恩恵は不倫がやりやすくさにある。つい30年前、個人個人が電話機を持ち歩くなど考えられない時代だったが、今や当たり前になっていることで、人間の生態系が変わっているのは間違いなかろうが、自分自身の生態系に変わりがないので、いまいちよく分からない。携帯に批判はないが、子どもまでもが電話機を持ち歩く怖ろしい時代という錯誤感はある。

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他人を尊重なしに自分への尊重はないが、自分を尊重するが他人を尊重できないもの多し。一億総中流化は貧困社会よりはいいことだろうが、生活レベルを競い、生活レベルの高低で他人を判断するという問題も生まれた。中流にも上下を見つけ出したい現れだろうが、ある経済学者は、「経済学とは手段の学問である」といった。確かにこれは名言であろう。

経済学の目的は国民の経済的水準の向上にある。言い換えるなら、国民を貧困にする経済学など無用である。武力闘争の時代は過ぎ、生活レベル競争の時代に移ってきた。その次にはどういう時代がくるのかは分からぬが、働きすぎ批判の兆しからみえるものは心の質の向上か?「心の豊かさ」という語句はどれだけ前から言われているが、真の豊かさは競争を止めたときにくる。

そんな気がするこの頃だ。無用な競争がなければ心が豊かになり、心が豊かになればいじめもなくなる。いじめはよくない、よくない、よくないと誰もが言いもし、思いもするが、人を叩く自分がいじめの当事者との認識がない。「いじめはよくない」は誰もが知っていることだが、所詮は一知半解なのだろう。「一知半解は、知らざるに劣る」と、誰の言葉だったか頭を過る。

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