「悪女」といわれるなかには、女性特有のヒステリーも含まれていると思っていたが、ヒステリーは一種の症例であるが、悪女は病気ではない。「悪女」はまた、「性悪女」とも少しニュアンスが違っている。性悪女は男を困らせるだけで、男にとっていいことはなにもないが、悪女は男を困らせるけれども、それが女性特有の魅力であり、男を惹きつけるともいう。
過去、悪女についての記事をいくつか書いたが中身は失念した。"悪女・死ぬまで生きよう"で検索すると3件見つかった。意外と少ないのは表題以外の記述が多かったのだろう。悪女に興味があった自分は、悪女を見極めたかったからに過ぎず、悪妻も悪女とすれば、悪妻など嫁に娶ってなるものかである。それで安吾の『悪妻論』も読んでみたが、中身の理解はできなかった。
https://blogs.yahoo.co.jp/hanshirou/48277255.html
https://blogs.yahoo.co.jp/hanshirou/47609252.html
https://blogs.yahoo.co.jp/hanshirou/49404887.html
https://blogs.yahoo.co.jp/hanshirou/47609252.html
https://blogs.yahoo.co.jp/hanshirou/49404887.html
年齢も若く、経験も足りないということもあるにしろ、「夫婦は苦しめ合い、苦しみ合うのが当然だ。慰め、いたわるよりも、むしろ苦しめ合うのがよい。私はそう思う。人間関係は苦痛をもたらす方が当然なにだから」。「良妻などというものは、ニセモノ、安物に過ぎないのである」などの記述は反感すら抱いたが、『悪妻論』の以下の記述には同意を覚えた。
「才媛というタイプがある。数学ができるのだが、語学ができるのだか、物理ができるのだか知らないが、人間性というものへの省察に就いてはゼロなのだ。つまり学問はあるかも知れぬが、知性がゼロだ。人間性への省察こそ、真実の教養のもとであり、この知性をもたぬ才媛は野蛮人、原始人、非文化人と異らぬ」。これは才媛に限らず、男の秀才にも当てはまると思った。
「知性なき才媛は野蛮人・原始人」とは、言い過ぎの比喩だが、「才媛は非文化人」の言い方に共感はあった。「教養とは人間性への省察」と安吾はいうが、現代人における教養というのは、「人間関係の調整力」といわれている。文化的知識に深い造詣があるとか、沢山の本を読んでいるとかではない。人間にとって、それほど人間関係は難しいということのようだ。
「人間関係調整力」とは、自分と他人または、他人と他人の衝突を防ぐための知識や経験、さらには思いやりであり、人間関係において最も重要なことを、「教養」というのは、あながち間違いではなかろう。人間に重要なのは学問的な知識ではないというのは経験的に実感するが、学問ができれば偉いと世間はいう。学問に秀でた人間は学者にでもなればいいのだろう。
頭の良さとは考えることでもあるから、深い洞察力も含めた思考が人間関係の調整に寄与し、バカでは役不足となる。ただし、頭は悪くても人柄の良い性質が人間関係にプラスになったりする。頭は悪くとも好人格な人は人から好かれる。安吾は才媛(秀才)がすべてではないといっているのだから、秀才は人間への省察に興味を抱けばよいということになる。
人間が悩むのは、目の前にあるトラブルを解決できないからだと思っている。乞食よりも高学歴で優秀な人に自殺が多いのは、学問ができても人間的・世俗的な問題を解決できないということか。問題解決の手法として、知識を拠り所に、それを理詰めに考えるという方法もあるが、問題解決においては過去の類似体験を持ち合わせていることが役に立ったリする。
囲碁・将棋の棋士が過去の棋譜データを基に、同一局面から好手を選ぶようにで、棋士が思考する際は論理脳(左脳)より、感覚脳(右脳)を駆使するのが分かっている。ゲームと社会的問題は違うだろうか、「洞察力」が右脳活用の極致といわれる問題解決能力であるのも分かっている。が、右脳というのは働かせようと意識すれば働かないという厄介な性質であるという。
つまり、意識しないで右脳を活発に働かせるという無意識の経験的力量が大きくものをいうことになる。難題を事もなげにさっさと支持する管理職は、頭の良さというより、人間的な感覚を備えた感性豊かな人間であろう。それら、秀才などは足元にも及びつかない。誰もが魅力的な人間でありたいと願ってはみても、本当に魅力的な人間はごく少数というのが実情だ。
即ち、魅力的な人間になりたい、なるためには、「何が人間的魅力なのか」を理解しておく必要がある。それが決して学問に秀でた人間でない事だけは間違いない。特定のアスリートを評価する際、「攻・守・走」に秀でた人物などといわれるが、将棋は走らないから、「攻・守のバランス」が絶対的に重要だ。人間には嗜好があるからゆえに、どちらかに偏るきらいがある。
悪女を避けたいがためには、「悪女がなんであるか」を知る必要がある。それで悪女本などを読んで研究したわけではない。悪女本を読んで何かの役に立ったこともないし、これほどおどろおどろしい悪女がいるのかと驚くばかりであった。永井路子の『日本史にみる女の愛と生き方』は、女性を、美女、賢女、愚妻、強女、幻女、傑女、艶女、妖女、寵女に分類されている。
男と女との「はらほろひれはれ」的結末は、今より古時代の方がけたたましく、寵女とは寵姫、つまり側室のことであるが、永井路子の寵女の段にある藤原薬子(くすこ)にまつわる話は、昨今の不倫話などとは比較にならぬほどに面白い。薬子は紫式部や清少納言や小野小町ほど著名ではないが、彼女はまぎれもなく平安初期の日本の歴史を揺さぶった女性であろう。
平安朝初期に起こったある事件は彼女の名をとり、「薬子の乱」と呼ぶ。彼女は桓武天皇の皇太子安殿親王の妃として嫁いた花嫁の付添人であったが、当時35歳くらいの主婦であったにも関わらず、その大胆なる秘技によって親王をとりこにしてしまった。親王は彼女を親王付女官として寵愛するが、道ならぬ恋(不倫)が、許されようハズもなく、桓武天皇に追い出すよう命じられる。
長くなるのでこのあたりに留めておくが、その後は想像もむつかしくはない。男を誘惑し、自分に振り向かせることを道楽(?)とする悪女もいるが、確かに人の心を弄ぶのは遊戯として面白いのは分かる。これも女性のナルシシズム的傾向性であろう。「男をはべらす」といい、はべらせるの意味は、従える・奉仕させる・仕えさせるだが、そんな男は嫌というほど見た。
つまらん男だと思うと同時に、つまらん女と見えた。だから、そういう女性には興味もなく、むしろ嫌悪感を持った。おそらく母のイメージと重なるのだろう。こういう女に女性らしさは微塵も感じられなかった。なぜに男はそういう女の魔力に惹きこまれるのか?何人かに聞いたが今風にいえば、「M男くん」である。まあ、ドM男は同性からみてもキモチわり~。