現代社会は思いの他、巨大になりすぎた。そうした中で個性的に生きるのは難しくなっている。個性とは言うまでもなく、他人と違う恰好をするとかではない。髪型がどうの、洋服がどうのこうのではなく、それらはむしろ限界的区別というものであって、些少な相違に関するナルシズムを個性的とはいわない。が、個性的であるというのは魅力的なことには違いない。
ならば、何をもって、「個性」というのだろう。個性については様々な見方や意見があろうが、思うに人間が個性的であるということがもっとも顕著にあらわれるのは、自らの人生に課せられた問題の解決の仕方などではないだろうか。したがって、様々な困難な問題に直面することを避けている人間は、絶対に個性的になどなり得ないが、ようは安易さを求める人間である。
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人にはそれこそさまざまな能力があるが、自分をごまかすことのできる才能の持ち主もいる。自分を誤魔化すのが能力か?と言われれば、演技の上手い役者を才能があるといわれるように、実社会でも上手く、誰にも気づかれることなく自分を誤魔化せる人間も才能である。時々に自分を巧妙に誤魔化しながら器用に人生を立ち回るなど、なかなかできるものではない。
が、自分も他人も誤魔化すことのできる人を、「世渡りが上手い人」などとポジティブな言い方をするが、自分や他人を誤魔化すのは善悪は別に、大変な能力といえるだろう。それほどに人間の精神はどこまで誤魔化しのない真実に耐えうることができるだろうかと考える。人間の悲劇というのは、自らの真実から眼を背けることのできない人に起こるのではないだろうか。
ニーチェもロマン・ローランも家康も、「生は担うに重い」といったが、「自分は一体何のために生れてきたのか?」と考えたニーチェは、無意味であることに気づかされたのだ。生まれたことに目的があるのではなく、生れた後に目的を作っていく。短いスパンの中で人生を捉える人、あるいは数年先という長いスパンの中で捉える人は、それぞれに生きる目的も違ってくる。
人生とは、「ひたすら耐えることを目的とする」と答えにおいて、それは立派な回答である。耐えて耐えて耐え抜いて、我慢に我慢をかさねて我慢の限りを尽くしてこそ人間は鍛えられていく。キリスト教にもマルクス主義にもそれなりの救いはあるが、ニーチェという人は、聖書や資本論における救いを拒否した人である。彼は現実をありのままに受け取ろうとした。
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そのことで、救いが奪われ、ただ無意味な生が永遠に繰り返されることが可能となった。これがニーチェに永劫回帰思想である。つまるところ永劫回帰とは、ニヒリズムの極致である。ニーチェは耐乏を受け入れるだけでなく、耐えることを愛した人でもある。彼は耐乏を受け入れるだけでなく、それを愛したところがすごい。しかもそれを自らが望んだのである。
大辞林第三版による、「永劫回帰」の解説は以下の様に記されている。「あらゆる存在は意味も目標もなく、永劫に繰り返されるが、この円環運動をあえて生きる決意をする者は生の絶対的肯定に転じることになる。永遠回帰ともいう」。 宗教批判の根底にあるのは、所詮神は信じるか信じないかの問題に過ぎず、西洋における精神の歴史は神に対する懐疑と信仰の歴史である。
「神様は存在する」ということにして生きる人たちの方が、苦しみ強く乗り越えていけるのではないかと思ってしまう。そういう人たちにとっての苦しみとは、決して無駄ではなく、神様はずっと見守ってくださると思っているようだが、神を信じず、信仰のない自分などは苦しみをどう考えるのだろう。何も拠り所のない苦しみなら、自らの精神力で跳ね返すしかない。
ヒステリー球は内科領域の呼び名で、耳鼻咽喉科では、「咽喉頭異常感症」と呼ばれる。もっともヒステリーも近年だとセクハラ的な言い方で、正しくは、「解離性障害」、「身体表現性障害」を用いる。分かり易いのでヒステリーという用語をいうが、率直にいって理性をなくすること。その結果として男が被害にあっているということだが、同性にも被害は及ぶことになる。
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「溺れる者は藁をも掴む」というが、そういう自分は何を掴もうとするのだろうか。記憶を辿ってみるに、様々な自己啓発を画策したように思う。「人はなぜ人生に意味や理由を求めるのだろう。意味や理由を求めれば、自ずと人生に意味や理由があると思うから、それが悩みの原因になったりする。自分は人との出会いにも「縁」などという意味を求めない。
そう思うことは簡単だが、根拠のないことをあえて思おうとはしない。この世で起こることは必然などとも思わない。この世で起こる事の一切は偶然であると思っている。間違った思い込みで苦しんだり、悩んだりする人を見かけるが、そうまでして悩みたいのかと思ってしまう。人に迷惑もかけず、これといった罪も起こさず生きていても、大震災ですべてを失う人もいる。
もし彼らの誰かが、「清く正しく生きてきたのに、なぜこのような仕打ちを受けるのか?」と考えるに至ったなら、苦しみ慟哭するであろう。「善人も悪人もない。自然は何をも意図すず、どういう人間にも公平に降りかかる」と思えばいいのではないかと愚行する。遠藤周作の『沈黙』ではないが、信仰者は理不尽な出来事に際し、「なぜ神は黙っておられるのか?」を問う。
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信仰なき者はそんなことを問う対象がない。自然の猛威への怒りだけだが、それすら無意味がないと悟ると黙するのみだが、敬虔なる信仰者は、神の無慈悲さを自ら解決せねばならない。信仰者の苦悩はさまざまな形で現れるが、トスカ姫による悲痛のアリアには心を打たれる。祭壇に花を捧げ、聖壇に祈りを捧げることもない我々にとっては神への嘆きは皆無である。
私は芸に生き 歌に生き
人様には何ひとつ 悪いことをしませんでした
不幸な人を知れば そっと手を差し伸べ助けました
人様には何ひとつ 悪いことをしませんでした
不幸な人を知れば そっと手を差し伸べ助けました
私はいつの日も 心からの信仰をこめて
祈りを聖壇に捧げましたし
心からの信仰をもって 祭壇に花を捧げました
祈りを聖壇に捧げましたし
心からの信仰をもって 祭壇に花を捧げました
この苦しみの時に、何ゆえに・・・主よ
私にこのような報いを お与えになるのですか?
私にこのような報いを お与えになるのですか?
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女性が女性を、「彼女はヒステリー」などといったりを耳にするが、実母の事例からすれば、彼女はそれこそ日常の細かいことに至るまで、息子への期待と依存にに満ちていた。それこそ彼女の身勝手な期待であるが、「期待」をしていることに対して、「期待した結果」が得られないときに、「感情的」になる。こちらにすれば人(親)の勝手な期待に応える義務はない。
傲慢な親はそこが分からず、勝手にイラついたり腹を立てたり、あげくはヒステリーを引き起こしたりする。妻が夫に期待する場合にも同じようなことになる。何で人は人に勝手な期待をするのだろうか?これが根本的な問題である。他人は自分ではないし、そういう他人に自分勝手な期待をし、適わないからと不機嫌になることの責任がこちらにはないとすべきであろう。