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ヒステリー論考 ③

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子どもに視点を置くか、親の価値観を優先させるかによって育て方は大きく変わる。子どもは誰のものか?という命題は、親にとって難しい問題だ。親は意識・無意識にかかわらず子どもに期待をかけるが、子どもにとっては迷惑な期待も親の楽しみの一つのようだ。子どものためといいながら、大方の親は親であることを楽しもうとする。期待だけならまだいい。

欲が介入すると何が何でも子どもを自分の理想の枠に嵌めこんでしまおうとする。親の権利であるがごとく押し付けるが子どもに義務はない。そこで親と子は争い強いものが勝つ。一般的に親が強いのはメシを食わせてもらう弱みもある。子どもを享楽の対象とすることが果たして教育なのかと思うが、「子どもの将来のため」という都合のいい言葉を自らに言い聞かせる。

親の言いなりになりたくない強い反発心が自分の子ども体験だった。傲慢で力で押さえつける親には知恵で対抗したが、引き下がらない親ゆえに、自分たち母子は深刻な状態が続いた。自己実現のために親は障害という強烈な思いがあった。男には本能的闘争心があり、子どもと言えども押さえつけるのはダメ。それでも思い通りに動かしたい母はいつもヒステリックだった。

親が子に背く以上子も親に背くと思っていた。全権を握る親に対する反抗には、並みならぬエネルギーが必要だった。そうしたエネルギーを出さない、使わない子どもは、親に屈することで親から飴をもらえて、それを良しとする子どももいたのだろうが、親の言いなりになってもらう飴など腐ったものだと思っていた。親の最大の罪とは、子どもに飴をちらつかせる事だろう。

子どもは非力で純真で素直だから、飴玉一つで誰でも誘拐犯になれるが、自分が母から何かをしてもらうことや、飴玉やお金をもらうことを徹底して拒否したのは、自分の心を売り渡したくなかったからだ。母の喜ぶ顔など見るのもうんざりというほどに嫌悪していたのは無理からぬこと。そんな心情に育つ体験をさせられたからである。女はズルいと切実に思った。

鬼のような言動を見せる母が、時々に情緒が変わり、自分になびいて笑顔で接する様は気持ちが悪いの一言であった。自分が特別というわけではないが、そんなことをされるとかえって人間を疑ってしまう。自分はいたけで無知な子どもであったが、笑顔の奥にある般若の仮面は寸分たりとも見逃すことはなかった。その証拠に、自分が取り入らないと分かると豹変する。

そんなことを繰り返し、自分にはもはや信頼がおかれていないことを悟るほど、利発な母ではなかった。思慮がなく、思考もせず、いつもそのときばったりの母に、男の子は信頼を寄せることはないだろう。おそらく、親のご機嫌取りを良しとするように育たなかった男の子に、こういう親はバカにしか見えないだろう。男の子に信頼を得るために大事なのは「一貫性」である。

昨日と今日で言動が違うなど、男には許せることではない。なぜなら、男の行動規範が理性に殉じているからで、感情が行動規範になる女と男の違いである。もっとも、感情が行動規範といえるかと思うが、経験はないが女の子同士の世界観はそれで成り立っているのかも知れない。男の子は、あらゆるものから、信・義・勇などを自身の規範として学んでいく。

ところが自我が形成され、それに伴い欲やズルい考えが芽生えてくると、せっかくカッコイイと思い、理想と掲げていたヒーローたちの行為が絵に描いた餅に思えてくるようになる。そこで立ち止まって正義を問いただすか、利の欲望に順応して信義を葬り去るかの葛藤が起こる。子どもが大人の社会に批判的になるか、狡さを兼ね備えた大人に脱皮していくのかの葛藤が起こる。

あることを覚えている。「君はもう少し、役得ということを考えてもいいんじゃないか?」といわれて気づいたことがある。公は公、私は私と分類するのが当たり前と思っていたが、人の金で飲み食いや、支援者や得意先の歓待を自分は頑なに拒否していた時の相手からの言葉だった。拒否の理由は単純にそれが嫌だったわけで、モラルや我慢の無理強いではない。

そうしたものに溺れない、利を感じないという生き方を善しとしただけだから、その時の言葉すら誘惑に満ちた独饅頭の様に思えた。よって、以後もそれは変わらなかった。堅いなどといわれても、何にも困らなかったし、堅いのが嫌ならそちらが自分と付きあわなきゃいいだろうと。目先の利や欲に溺れないのが、自分にとっての普通の在り方で、人から言われるものではない。

などの言葉を当たり前に言うだけで、綺麗ごとの偽善者と受け取られたり、だから言わないでいることが多かった。物や金で自分の精神が動くなどなかったのは、おそらく子ども時期の母との体験が大きいと感じる。自分を売り渡した時点で、それはもう自分ではなくなっているという思いがあった。今でも、何かで自分という魂を売り渡すことはない。金や物や美人でも無駄だ。

世の中見渡すに、金や色仕掛けで男を腑抜けにさせようと意図するものは多い。ある生保が飛び切りの美女をしつらえて勧誘を始めたことがあった。ある生保とは、住友生命である。美人の効果は大きく成功したようだが、美人とやり取りする時の男の間抜けな顔は見るのも無残。自分は付き添いの所長に言った。「美人は嫌いなので、ブサイクな女性を連れてきてよ」。

言葉はでないが「まあ」という口がわかった。それがダメと感じた所長は、趣味でやってるという刺繍のレリーフをくれたり、自分には桃色作戦を変更し、それでも勧誘を諦めなかった。「自分は保険は嫌いなので入らない」と公言していたところに、プロ根性を発揮したのだろうが、彼女が数年後に退社することになった時の私信に、何やら書かれていたような記憶がある。

正確には覚えてはないが、「あなたをどうしても落としたかった」みたいなことが正直に綴られていて面白く読んだ。落とされない自信と、落とそうの自信とがぶつかり合っていたようで、こういう場合はどう考えても落とされない側が勝つに決まっている。同じように、売り手と買い手の勝負においても、買い手が売り手に負けるなどというのは、自分の辞書にはない。

買い手は自分の意志で買うのであって、売り手の誠意に負けて買うことはあっても、その場合においても、それを買いたいという自分の意志は反映されていなければならない。買いたくもない、買う気もなかったのに、口車に乗せられて買ってしまったというのを聞いたりするが、自分にはとても信じられない。それもお遊びならいいが、本質的に真面目な自分にはあり得ない。

生保の所長は顔や態度や言葉には現わさないが、かなりの執拗なヒステリー性格だったと思っている。あのしつこさ、負けず嫌いさ、執着心は、ヒステリーの要素をふんだんに持っている。ああした熱心さ、プロ意識は大事で成績にも反映するのだろうが、もし、自分を落とし込むような名殺し文句があるとすればそれは何であろうか?残念ながら自分にも分からない。

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