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フィフィはイナゴの親玉気取り

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フィフィはいじめ大好き人間のようだ。人を叩く側は高みの見物気分で、自分が実施できているでもない「正義」を振りかざし、さらには知り得てもいない根拠をいかにもそうであるかの如く加味し、自論の正しさを強調する。それはまた自己の正義感をも充足させるから気分もよいのだろう。あげく自らを、「正義の人道戦士」如きに錯覚して悦にいっている。

そうした思いで人を叩くけばいじめの認識もない。思慮無き持論を一点の揺らぎのない正論と思い込んでいる。いじめには首謀者がいるといったが、尻馬に乗るもののは、「加担」という罪状となる。いじめの首謀者は、いじめ相手の何から何まで気に食わないようで、こうした無慈悲な人叩きに対して自分は黙ってはいられない。いじめ首謀者を抹殺に取りかかる。

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フィフィの発言は悪意に満ちているばかりか、深読みすれば彼女がペテン師なのが分かる。世の中で書かれたもの、発言されたものにあって、最も怖ろしいものは何か?何が一番多くの害毒をばらまくかといえば、「虚偽」ではなく、「ある事の一部を意図的に欠落させた事実の表示」であろう。フィフィをペテンといったのは、彼女はそれをやる性悪女だからである。

小泉は事実を述べただけであるが、そもそもそフィフィはそれが気に食わない。善であれ、悪であれ事実は存在するが、悪の事実を公言するのは許せないとの言い分だが、そんなことでムキになる彼女の脳構造はまさに豆腐のカス、おから状態である。企業が悪(不祥事)を公言すれば、「そんなことなぜいうの?黙っていればいいのよ」といっているのと何ら変わらない。

今回の小泉の一件について、フィフィの言葉には虚偽とする確たるものはないが、思い込みというなら嘘とはいえない。ただ、前提の一部を意図的に欠落させた文章には、嘘はなくとも記載されているすべてが事実ではなく、虚偽に等しいものの可能性は否定できない。他人の心情の勝手な代弁するのは行き過ぎであるが、賛同者は彼女の小気味いい言葉に騙されてしまう。

それもフィフィファンなら仕方がない。人間が神ではない以上、真の義はあり得ない。真の義とは絶対的無謬のこと。また、「絶対」という言葉の多くは恣意的だ。一人の意見に1000人が無批判に同調するなら、その1000人が間違っていることになる。場の空気とか雰囲気や興奮からのノンポリ賛同者もいるが、結果は結果であるから、そのように定義されるだろう。

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とにかく自分は悪意に満ち満ちて人を叩くという行為が許せない。だから本件に時間を割いている。多勢に無勢の叩かれる側は、嵐が去るのを待つ心情であるが、叩く側の多くは高みの見物気分。「不倫を公言するなどどうかしている」、「奥さんや子どもさんがかわいそう」などの言い方を持ち出す場合が多く、そうした弱者救済を正義の御旗にすれど、所詮は仮説である。

LiLiCoとかいう女もこんな風に述べている。「私たちはちゃんと堂々としてますっていう風にやりたいんでしょうけど、最初は(豊原の)結婚が破綻してて(小泉と)付き合うという仮定から来てるので、何とも思わなかったんですけど、この交際があって(豊原が家を)出ちゃった。別居。これ駄目だよね。それは駄目」などと、無名の芸能人も尻馬に乗って目立ちたいのだろうが…

浮気相手や愛人が外にいても、家庭で良夫ぶりを演じている方がいいんじゃない?」ということだろうが、女は女の習性で物をいう。自責の念に駆られて家を出る男を、女ができるはずがない。「何事もなかったようにすっとぼけて良夫を演じなさいよ」というのは、「良夫」ではなく、「良妻」にいっとれ。あげく映画『うなぎ』のように夫に殺される妻もいる。

誰もが自分の考えや主観をいうのはそれはそれで仕方ないが、「不倫してることを公言するなど非常識で恥知らず」ということで自分の常識度をアピールするのだろうが、要は他人の選択である。「なぜに他人が他人の価値観に基づく生き方が気になるのか、気にいらぬのか!」に尽きるが、そういう考えの及ばない輩が、御意見番を気取る前に自身の埃を叩くことだ。

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他人ことを批判してどう幸せになれるのか?「奥さんがかわいそう」、「子どもがかわいそう」などとしたり顔でいうが、豊原が家を出る時点で妻に小泉の存在はいうだろう。さもなくば妻は夫が家をでる理由を理解できない。行為の是非はともかく、理由としていうべきことだが、何事もなく良夫(良妻)を演じ、突然文春砲に晒された時のショックと比較してみろである。

全体を深く思考すれば、フィフィの思慮無い発言は彼女ならではのペテンであり、性悪女に賛同する男の多さに愕然としてしまう。30年前ころにこんなことをいった。「社会的弱者を同情心でしか見ない人間は、潜在的差別思考がある」。PTAの部会での発言で、これは「同情は思いやり」という部員を批判したもの。会が終わって一人の女性が自分にこう述べた。

「うちは母子家庭ですが、あなたの言われるように、慮ったような同情はむしろ迷惑と感じます。普通にしてもらえるだけでいいのに、善人気取りの人たちは多いです」。確かにそれは感じている。自分は現在、知的障害の女性とやり取りをしているが、こういうメールを貰った。彼女たち障害者は、健常者のちょっとした言動に対してすごく敏感になっている。

確かに障害者もイロイロで、権益を当然と思う人もいれば、少数とはいえ出来るだけ健常者に近づきたい人もいる。かなり以前から、「同情は相手を見下げることによる快楽」と戒め、むやみな同情を避けている自分であるが、そうした戒めから本当の同情がどういうものであるかが見えてくる。善意の供与というのは難しいが、少なくとも差別意識だけは皆無でいたい。

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下肢に障害のある女性から教わったことがあった。何とかクルマには乗れるがいわゆるビッコである。ところが彼女は「駐車禁止等除外標章」を所持しているが必ず駐車場を利用する。不思議であったので「何で?」と率直に聞いたとき、「路上に止めるのは誰のクルマでも迷惑に変わりません」といった。心の美しい女性だと感じ、浅ましい自分が恥と教えられた。

豊原の妻が未だ愛情冷めあらぬ状態であれ、見知らぬ人たちから、「かわいそう」、「憐れ」などの同情で気持ちが晴れるだろうか?物事が定かでない場合、差し出す側の善意がはた迷惑ということもある。状況の勝手な判断より、「沈黙は金」であること多し。所詮は他人事というのは冷淡というより、無用な配慮や善意の押し付けに気づくことでもある。

自分がしてはいけないことと思うなら、自分はしなければいいだけのこと。自分の価値基準を人に押し付けたいろいうなら、あらゆる思考をすべきであって、それでなければ、小中学生のいじめの首謀者と何ら変わりがない。他人の悪口で世の中が浄化できるはずもなく所詮はいちゃもんだが、エジプト人も日本に長く住むと、悪口達者ないじめ好きになるようだ。

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