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「小泉今日子」論 ③

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大胆予測をいうなら、小泉のいう責任とは豊原の妻に直接会って謝罪をし、慰謝料相当額の弁済をする。これは小泉に自分を重ねたもので、自分なりの責任の取り方を書いたまでだ。他に責任の取りようがない。その前には豊原が協議離婚なり何なり、キチンと話をつけるのが筋だが、公表したのは勇み足というより、豊原に行動を促す意味もあったとも考えられる。

それにしても豊原が離婚しない事由は何か?妻子と別れたくない半分、小泉と続けたい半分か?その辺りの事情は分からないが、小泉がやみくもに公表したというより、そうした意図があったのかも知れない。いずれにしても彼らの事情であって、周囲は黙ったままで傍観するのが賢明だが、一言いいたい芸能人が仕事をもらえて、ここぞとばかりに調子にのって意見を乱舞させる。

人の数ほど意見があるのが世間。世間とは何かといえば、他人といっておけばよい。ユーミンのようなエールもあるが、西川史子はレギュラー番組の中で、「離婚をしていないのに恋愛を宣言するのは非常識。"キョンキョンらしい"  "潔い"ってなに?。順序が違うんじゃないか」とバッサリ。いつもしたり顔で正論をいうフィフィは、「気持ち悪い!」とま、他人の生き方を批判する。

この世に絶対善がないように絶対悪もない。世間の一員としての自分の思考選択は、「不倫は後ろめたいものだから陰でコソコソやるもの。あげく文春砲の餌食となれば何もないと嘘をつく。普段は善人気取りを装い、化けの皮が剥がされた奴らである。自分が人間的に信用できるのは小泉の方といっておく。ということで、前者を常識人と呼ぶ考えは断じて自分にはない。」

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いかになる想像であれ予測であれ、いかに合理的に組み立てられていたとしても、「仮説の一つ」に過ぎない。ということは、それに対する、「逆の仮設」も成り立つ。人間は人間を完璧に把握できないから、想像や仮設を立てて判断する。それが誤りとは言わないが、逆の思考をすることもせずに、一方的に断じたりの思い込みの激しい人間を底が浅いという。

フィフィやキャシー中島が必ずこういう時に引っ張り出されるのは、彼女らが思い込みの激しい人間であり、テレビの視聴者にインパクトを与えるかの独断発言を得意にするからだ。これは一種のレトリックであり、カンニング竹山がいうように、マスコミの情報操作である。視聴者はついつい小気味よい意見に引きずり込まれる。我々はバカを見ながらバカになっていく。

人の生き方を、「気持ち悪い」とまでいうフィフィら、自称常識人が支持されること自体おぞましい。小泉を非常識と吐き捨てた西川も同様だ。彼女自身のかつての思い上がった言動をして、自らを常識人と規定する女である。なぜ誰も西川に問わないのだろう。「陰でこそこそやる不倫が常識人なのか?」と…。我々は、「常識」という看板の落とし穴に嵌ってしまい易い。

自分に石を投げられることなく、他人に石を投げられる人間など、どこを探してもいない。完ぺきなまでに正しい意見もない。すべてにおいて間違いという意見もない。上に昇ったり下に降りたり、右に寄ったり左に傾いたり、何にも左右されず影響も受けず真っすぐ進む人もいるが、影響を受けないのがいいというわけでもない、斯くの人は自らに固執した人だ。

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影響受けやすい人を優柔不断といったり、八方美人といったり、影響を受けない人を頑固といったり、堅物といったり…。それも世間の見方である。右を向いても世間、左を向いても世間、上を見れば偉い人、下を見ればバカがいる。どこに立ち位置を求めるかは個々の判断による。「鶏口となるも牛後となるなかれ」という言葉がある。「お山の大将」で満足の人もいる。

広い大洋に舟を漕ぎだす人もいれば、井の中の蛙でいい人もいる。世間というのは一筋縄でいかないから面白いのであって、フィフィや西川やキャシー中島、あるいはユーミンの意見は彼女らの考えであって、信奉することが危険であろう。同様にここでの自分の意見も自分の考えでしかなく、「一言にして尽くすべし」は危険だが、テレビほどの影響はないと思っている。

こういう見方はできる。人間は順風満帆なとき、幸せに浸っているときより、何か問題が起こった時にこそ、その人なりの本性がわかる。夫婦が離婚問題を抱えたとき、夫も妻も男として女としての度量が試される。一般的に、"男の度量"というが、"女の度量"とは馴染みがない。が、女にだって度量はある。度量がないから離婚問題でもめるし、ドロドロした本音や欲が露わになる。

ある弁護士がこう述べている。離婚問題の際に女性は二つのタイプに分かれるという。とても潔く、客観的な判断ができる女性は、たとえ夫が浮気に走り、新しい女性に入れ込んで離婚をいい出しても、一方的に恨んだり嘆いたりしない。例えば、「夫がしたことを許せない気持ちはありますが、でも、普段から夫とは会話もなかったし、私にも原因はあると思う」。

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「夫の浮気はショックではありますが、私が仕事にのめり込んで、夫に淋しい思いをさせたのかもしれません」。とこのように、相互の非を認め、離婚も受け入れ、妥当な慰謝料や養育費の算出をする。他方のケースは、まるで鬼の形相で弁護士に相談に来る女性。「主人を絶対に許さない。どこまでも苦しめなければ収まらない。先生、あの男をとっちめてください」。

「法外な慰謝料を要求して離婚できないようにして欲しい。相手女性に対しても慰謝料を要求して懲らしめてやりたい!」と、弁護士に相談に訪れこうした女性の場合は、目的は離婚ではなく復讐と化している。これでは解決できるものもできなくなろう。離婚も出会いがしらの交通事故も、一方にのみ非があることなどないのに、それが見えない、もしくは考えない。

小泉と恋愛関係にある豊原功補が3日に都内で会見し、恋愛関係に至った経緯や、家族への思いなどを語った。豊原は妻に対し、「伝えたい思いがいっぱい」としながらも、「そもそもが好きで一緒になって、一緒に子供を育てて家族の形ができて、私が弱いからかも知れませんが、そう簡単に一言でこうと言うことはできない」と述べたが、夫婦の長きを数分では語れない。

世間が世の中のことに騒ぎ立てるのは、元禄赤穂事件もそうだった。世間は義士を讃え、助命を望んでいた。時の将軍綱吉も世論の声の大きさもあって裁定を苦慮していたが、儒学者を交えての喧々諤々の論議の末、浪士の行為は義に適っているが法にもとる行為と落着した。が、考えてみるに、「義に適うが法にもとる」というのは、「法が義に適っていない」ことになる。

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幕府自らが施行している法が義でないというなら、幕府の在り方そのものが不義となるのは明白である。近代においても司法の判例には矛盾が多い。市井無頼の徒と交遊したことで下情に通じ、名判官とうたわれた遠山金四郎景元のような名奉行は望むべくもないが、近年のテレビ局御用達とはいえ、コメンテータを気取る芸能人の乱造は目に余る。

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