まずはユーミンの言葉。「堂々と不倫宣言、すばらしいじゃないですか。小泉今日子さんらしいんじゃないですか?」。自分も同じ思いだった。「小泉さんらしい」については、ユーミンほどに自分は小泉を知らない。知らないまでもユーミンのいう、「小泉らしい」と一致するなら、知らない小泉のイメージは間違ってないということか?多くのファンも同じ思いだろう。
どことなく小泉はそうした芯の強さを持った女性で、こせこせとしていないという感じがある。父親との二人暮らしから影響を受けたのかどうかは分からないが、いい子ぶった自分を演じないところに男気質が見られる。「こせこせしたいいこより、堂々の悪者になった方がずっと楽」というのが、共感できる小泉流の生き方であり、実際にそのような言葉も述べている。
彼女は金銭感覚がシビアといわれるほどにしっかりとため込んでおり、「金持ち喧嘩せず」という強さも見受けられる。最近、「なぜ人は遂げられぬ恋に悲観的な見方をするのか?」と書いたが、出ては消え、消えては出てくる文春砲が暴いた不倫の数々だが、表沙汰になって消滅するのは、子どもの火遊び如きに過ぎない。それに比すれば小泉の恋は大人の恋であろう。
「自分が幸せになるなら他人が不幸になり、他人の幸せを望めば自分が不幸になる」という矛盾。この命題に答えを出すためには、小泉のような姿勢でなければならない。「人を不幸にしてまで自分が幸せになっていいのか?」この言葉は、妻子ある男を好きになった時の、親族や友人から投げかけられる言葉の類である。一見、正論如きに聞こえるがどうであろうか?
これには「離婚は不幸」という定番思考が見える。夫婦が何のわだかまりもない状態で生活しているときに、突然夫が若い女性に入れ込み、熱をあげて家にも帰らなくなった。妻としてはまさに寝耳に水という状況で、突然現れた女性に憎しみを抱くのも無理もない。が、考えてみるに、その女性の存在のどこに罪がある?まるで女が夫を誘惑し、唆したかような被害意識を抱く妻。
夫が若い女性に走った妻がこんな風に言った。「上司だからつい断れない事情もあったのでしょうけど、妻子があることを知りながら、なぜそういう関係になるのか理解できません」。大人の色恋問題に口を出せるものはいないが、自分はこう答えてみた。「理解できないというなら、妻子がいるにも関わらず、独身女性にちょっかい出す夫は理解できるのか?」
唐突ないわれ方に返す言葉を失ったのか、まともな返答はできなかった。単純に憎しむ気持ちもわかるが、自分の都合のいいように考え、都合の悪いことを理解できないなどという前に、身近で寝食を共にする夫を理解できないで、それで女性をか?他人の道ならぬ恋を責める前に、配偶者としての責任を追及すべきである。女が女に嫉妬するのが感情論というなら、言葉はない。
起こったことにブツブツ文句をいい、浮気相手女性のところに押しかける妻もいるが、問題解決というより怒りの行動だろうが、こうした行動もヒステリー気質というしかない。解決を望むなら、ギャーギャー喚くよりも、冷静に事実を受け止めて行動するしかない。夫婦円満、家族を大事にする夫が、突然家庭を棄てるなどは稀で、そうであるなら魔が刺したというしかない。
多くの男は、夫婦不満、家庭不満のなかにあっても、浮気もせずに嫁の機嫌・不機嫌にさらされ、上司の機嫌・不機嫌に喘ぎながらせっせと働き、心身疲労の末に帰路につく。山本文緒の『群青の夜の羽毛布』では、教師を妻に持つ夫の独白がある。外に若い女を作り、そこに妻と娘が押しかけて離別させられ、遂には家に火をつけて家庭を破壊しようとした夫である。
厳格な母の被害者は夫だけではなく、長女も飼いならされた犬だった。家に火をつけようとしたのは長女であって、想いを同じにする夫がそれに協力したまで…。幸か不幸か命を取り留めた後も、生きることを放棄して自宅の一室に引きこもり、廃人同様の生を送る夫がいう。「確かに家族から逃げていました、先生。妻は私のことを本当には愛してくれませんでしたからね。
誰も私を待っていない、あの坂の上の家…。帰らなきゃいけませんか?恋をしてはいけませんか?傷の癒えた彼女がいなくなったのも、すべてあいつらのせいなんです。あいつら…、妻と娘…」。家族の誰にも必要とされない夫のやり場のない虚脱感を描いている。そんな山本が生み出す想像力は、現実と非現実の相俟った、「怖い」では表現しきれないおぞましさがある。
浮気は本気にならねば一時の熱病であり、飽きれば元の鞘に収まる図式が多い。夫の浮気が本気かどうかの判断は、浮気相手から結婚を迫られれば尻込みする。浮気だからやれるのに、言い寄られた浮気相手を亡き者にした類の事件は少なくない。男が不倫相手女性を愛おしく思うのも、先の見えぬ恋に身を捧げてくれる愛しさであるが、その女を妻とすれば元の木阿弥だ。
小泉は自らの不倫宣言に対する外野の声に対し、「自分の責任は自分で取るつもり」といっており、「関係のない周囲があれこれいうな」と声なき声で心情を語っているのが分かる。相手の豊原功補とは、「結婚するとかそういうことではありません」ともいい、不倫の成就が結婚という短絡思考にも釘を刺している。「結婚が恋愛の成就ではない」という大人の考えであろう。
人生の姿は、何よりも恋という形で集約的に現わされる。恋をしたところでどうなるわけでもないのに人は恋をし、生きてみたところでどうなるわけでないのに人は生きる。なぜなら、「恋」も「生」も本能であるからだ。人生とはそれほど高尚なものではない。他人をゲスという言い方が流行っているが、ゲスでない人間がいるのだろうか?他人がバカであるように自分もバカなのだ。
人の生なんてのは、どう考えても大した問題でないことに腹を立て、不愉快になったりする。そうした不愉快な気持ちをどうすることすらもできないのが人間よ。自分のエゴだと分かっていながらどうにもできず、自分自身が嫌になる。分かっていながらも情けなくもなる。情けないからといってどうにもできない。それが人間であり、最も露骨に現れるのが恋であろう。
己の行為に責任を持つなら、こそこそすることもない。口実や言い訳を考えることもない、おどおど逃げ回ることもない。こういう考えが自分の行動規範であり、生き方でもある。小泉が同じ考えの持ち主なら分かり易い。自らの行為なら批判を覚悟だろうが、マスコミはゴチャゴチャうるさい。「自らに責任をとるなら、自らを生きて何が悪い?」小泉の思いを代弁しておこう。
小泉擁護でもなく、コソコソ不倫を批判するでもないが、陰でコソコソが不倫の王道(?)であれ、それは嫌だという人間もいる。不倫に対する考え方というより、人の生き方の選択であるはずなのに、公言するなど非常識と、常識人の看板を掲げる女がいる。人を殺して何食わぬ顔で世間を生きる奴より、「殺しました」と公言(自首)する人間は非常識と自分には聞こえてしまう。