父があのような母を、「百年の不作」と思ったか否か分からぬが、母を見初めて伴侶としたのは父であって誰の責任ということでもない。その母の悪口を言うことは、自分(の選択)に文句をいうことになるが、知ってか知らでそういう人間は多い。夫の悪口言い放題の女にそのことを言ったことがある。彼女は、そんなこと言ったって最初に見極められないでしょ?」と返す。
これは正論か?出会って付き合ってるうちは見えない部分があるのは、おそらく1000人中1000人であるのは間違いない。「こんなハズではなかった」、「こんな相手とは思わなかった」となるだろう。が、そのように思うことや、後悔することと、誰かれ構わず相手を罵り、不満をぶつけることとは別では?悪口を言って後悔が消え去るものではないだろう。
そんな風にいえば、「いいのよ、別に。悪口・不満を言えばせいせいする」と、こんな言い方をする女は多い。「相手に聞いてもらえるだけで憂さ晴らしできる」ということのようで、それが分かるから友人たちが、「何でも言いなさいよ。聞いてあげるから」と気を利かせる。なぜ、愚痴や不満を吐き出せばせいせいするのだろうか?「ため込むから、鬱積するから」だろう。
ではなぜ、鬱積するとストレスになるのか?鬱積とは、「鬱」が積もると表記する。正確な意味を知らずとも字を見ただけでよくないことはわかる。人間が長期間にわたって感情を押し殺し続けると、身体的な不調や病気となって現れる。いや、これは人間以外の動物にもみられる。心の病が身体に影響を及ぼすのは心と体が密接な関係にあるというのが理解できる。
WHO憲章には、「健全な肉体は健全な精神に宿る」である。人間関係が気まずくなるので口論を避けたい、自分も傷つきたくないし、相手も傷つけたくないからと、自分の感情を口にするのを我慢し、感情を押し殺すのは間違っている。であるが、人を捕まえて悪口で気分転換を図るのは情緒が成熟していない。したがって、そういう女性は思慮が浅いといっていいだろう。
陰口・悪口をいうなら、直接本人にいえばいいのよ。昨年の暮れにこういうことがあった。公民館で出会った将棋仲間のKさんとは互いに時間もあるし、平日でもやろうじゃないかとなって自宅へ誘った。棋力は6:4くらいで自分に分がある感じだが、いきなり3連敗したKさんは、熱くなったのだろう思わずこう言った。「家に呼ばれりゃ御祝儀というものもあろうし…」。
冗談半分とも本気半分とも、気づかせられないような言い方を人はする。本気で言えば大人げない、かといって冗談だけでは気が晴れないという人間心理のあやである。もとより負け惜しみや言い訳の多いKさんは、「体調が悪い」ならいつものことと気にもとめない。自分はKさんの御祝儀発言に言い返す。「体調のせいならいくらでもいっていいが、場所のせいするのはダメでしょ?」
これをいえば気まずくなるのは承知であるが、だからといって、相手の非礼を看過はできない。気まずくしたのはKさんであって、この人は自宅には呼べない人と判断した。Kさんは10歳も上の78歳で、だからどうということもないが、自分の言葉にKさんは情緒を見出し、「止めた、止めた。帰ります」と告げた。蒔いた種というのか、そういう言葉も彼の自尊心である。
Kさんとは自宅で指さねばいいだけのこと、公民館でならわだかまりなく指せる自分である。が、以後Kさんは自分を避けている様子で、言葉を交わすこともなくなった。自ら墓穴を掘った状況であり、自分は別に気まずさを感じない。原因がハッキリしているからだ。確かに、Kさんの言葉を見逃すこともできた。「つまらんことをいう人だ」と見下げて反応しない方法もあった。
が、Kさんのその言葉で二度と自宅へ誘わないと決めた以上、惜別の気持ちを言ったまでで、自らに正直な選択でもある。人が人に何かを言う場合、相手の性格によって言い方は変わるものだから、Kさんを穏やかで好人物と感じるなら、先の言葉は100%冗談と受け取ったろう。「御祝儀といわれるなら、ずっと負けてもらっていいですよ」くらいの冗談も返せたはずだ。
自分にとってKさんは、言い訳と負け惜しみの多い、人間としてはしたない人との思いもあり、自分にとっては好人物といえる人ではない。が、そこは将棋というゲームのことゆえ、いちいち気にしても仕方がない。これまで将棋相手にはいろんな人間を経験している。対局中に圧倒的不利となり、「止めた」と駒を崩して立ち去った人、逃げ方を間違え、「そこは詰み」というと…
「だったら詰ませば?いちいち言わんでいい」といった人。善意といえば善意ともいえるが、善意が相手の自尊心を壊したことになる。こういう状況を、「善意も仇となる」というが、まさに人の世の難しさ。人の世の難しさを、かつては事前対応の難しさと考えていたが、ひと年とった後は、事後にどう対処するかに変わった。自分を嫌う人を避けないようになれた。
それが、「〇〇さんはぼくの事嫌ってません?ぼくは嫌われても〇〇さんは嫌じゃない」などといえる。人を食った言い方でもあるが、好人物と思える人への御用達で、性根の悪い人にはすり寄らない。それが互いのためである。自分からみれば男にもヒステリー性格の人がいる。女のヒステリーに比べて対処がしやすいのは、黙って無視して近寄らなければ難はない。
男のヒステリーは放っておけること。そうすれば噛みついてくることもないが、女はその点、底意地が悪い。父が母の気分を害せぬよう耐えているのは子どもにも分かったが、何でガツンといわないのかという思いはあった。それなのに母は父の心を侵害させるようなことを平気でいう。相手が何もしないのを見越しているかのような、そうした言動は見ていて苛つくものだった。
何をいわれてもされてもだんまりを決め込む父の心境は、高校生当時の自分には理解できなかったが今ならよくわかる。この女は紛れもない、自分の選んだ女という理知と察する。言い訳の類を一切いわない人間の自己責任感、父のそういうところは頭が下がる。もっとも、自分は環境を選んで生れてきたわけではない。嫌で仕方のない母を選んで母にしたわけではない。
ゆえにか父と違って文句は許されようし、「親からの強制を義務と考える必要は子どもにはない」、というのは早い時期に本の中に見つけていた。親の言いつけをキチンと守る子が、「いいこ」であると世間の評価だが、大人の都合のよい論理である。バカな親、バカな大人にひれ伏す必要はないく、それがわかるということは、子どもがバカを超えているという自負でもある。
どんな親にも迎合する子どもは、アイデンティティの放棄であり、「いいこ」神話は無視てしかりである。親に順応し、姑息に迎合する子どもは、子どもとして光り輝かない子どもであろう。子どもの人生はその子が決めればいいのであって、親が押し付ける幸福に寄りかかる必要は全然ない。そういう子は、「いいこ」を糧に楽をしたい子どもに見えてしまうのだ。