この年になれば女性のヒステリーを間近に感じる付き合いはないが、らしきはかつてブログのコメントに数件あった。もはやヒステリー女とは縁がないと思いきや、45年前の彼女と再会で予期せぬヒステリー女を久々味わうことになる。これまでは日常生活の中でのヒステリー発露だったが、文明の進歩か近年は、文(メール)のやりとりから人間を実感できる時代である。
日本中どこであれ、北海道であれ沖縄であれ、定点が距離に関係なくリアルタイムに結ばれるのは電信の発明の賜物だが、そうはいっても長距離間のケーブルを設置する必要があった。そのケーブルを設置する手間を取っ払ったのがインターネット。語源は一般名詞の「インターネットワーク (internetwork)」で、コンピュータ同士を結んだ世界規模のネットワークを指す。
もともと inter とは中間とか間、相互といった意味を持ち、international なら国際、intercession なら仲介となる。したがって語源的には、ネットワークとネットワークをつなぐものが、インターネットである。この世界規模の通信網のおかげで、世界は物理的な距離がなくなってしまった。 かつて長距離市外電話は通話料が気になったが、現在はタダより安いものはない。
それゆえに遠方のヒステリー女を瞬時に体現できるという、皮肉もいえてしまう。本来ならわざわざ出かけて相手を目の前にしなければ味わえないことが、居ながらに椅子に腰をかけて味わえる。これも便利といえば便利、無用といえば無用、便利な文明社会は、また負の遺産といえなくもない。あらゆることにはあらゆる思考を嵌められるなら、人間は誰も「考える葦」となる。
ノスタルジーを味わうことになったが、おかげでヒステリーという不快をも味わうことになる。いつも思うことだが、真実とは残酷である。夫や妻の浮気を知らぬでいるなら心は平安だが、真実を知ることでどちらも傷つく。浮気をする側が悪い、罪であるといったところで、罪の本質は露呈することだ。行為が罪だろうというが、露呈しない悪とされる行為は、「不道徳」である。
多くの人間は不道徳や人倫に反した行為の中で生きているが、露呈しないから悪人も善人とされている。これは仕方がない。人間は本当は悪人のくせに善人と思われたい生き物である。人間の最大の罪は人殺しであろうか?大方はそのようにいうだろう。そういう人間は、弱い立場に立って、他人から理不尽ないじめめ経験を受けたことのない、あるいはそうした想像力のない者である。
いじめで命を絶つ子の気持ちをどれだけ親身に共感をもって思考できるだろうか。「強者の論理」というのは、弱者を不在にする傲慢さで成り立っている。そういう人間には、弱い立場の人間が、あらん限りの言葉で罵倒され、いじめ抜かれることなど考えることもなかろう。「人殺しが最大の罪」というのは間違いではないが、人間はなんとも罪深き生き物である。
強い動物が弱い動物を殺すのは自ら生きていくための労力である。どれほどお腹を空かせていても、そうした労力をしないでいては餌にありつけないが、人間が人を殺す理由は、自ら生きるためではなかろう。食肉を餌とするも、人は人間を餌とはしていない。なのに、毎日毎日人が人を殺している。バカげた社会と思うが、実際にバカげているのは人間である。
いつの間に大きな命題に向かってしまったが、今回の表題はヒステリーという小事であった。ヒステリー気質が殺人に及ぶこともあろうが、言葉であれ、文であれ、冷静さを欠いた女の感情暴走は仕方ないことか。圧倒的に女性に多いが、男にも小児にもないわけではない。過去のデータだが、ヒステリー患者10人に対する男の割合は、1~1.5人という数字を目にした。
政治家や識者の論戦において、抑えが効かず、ヒステリーもどき無様な醜態をさらしてしまうのが、男性ならヒステリーには見えぬが、女性ならもろにヒステリーに見えてしまうのは偏見もしくは先入観なのか?いや、熱くなった状況は同じでも男と女とではどこか違う。記憶を辿ってみるが、自分はこれまで男のヒステリーと思しき状況・状態に遭遇したことがあるか?
中1の時、何もいわずにいきなり近寄って来、ゆでだこのような真っ赤な顔でビンタを食わせた教師がいた。高1の入学式後の教室へ入る時間にワザと遅れて入ったところ、いきなり担任が真っ青な顔でビンタを食らった。思いつくのはこの二人で、どちらも教師である。かつて有名な兄弟漫画家に、山根赤鬼、山根青鬼というのがいたが、この教師はまさに青鬼、赤鬼だった。
中1の担任とはそれ以後口を利いた記憶がない。高1の担任はあっちがナツイてくるので、仕方なしに言葉をかわしたが、どちらも同程度に嫌いな教師だった。青ヤギさんなら可愛いが、赤鬼・青鬼教師などクソくらえ。政治家や識者の論戦を眺めながら、当然ながら当人は自分を観賞できないだろうから、その醜態は周囲は笑いの渦となるが一人芝居と思えば見苦しい。
女性のヒステリーは物心ついたころから、母という身近な生きた標本があったせいか、見極めや鑑定はどうということはない。ヒステリーは病気に属すが、ヒステリー気質とは病気といわないまでも、病的エゴイズムであり、彼女たちは甚だ傲慢であったり、打算的であったりで、ひどいのは手に負えない。手に負えないから殴る蹴るでなく、ひたすらじっと耐える。
嵐が過ぎるのをひたすら耐える。父がそうしていたように…。下手に無用なことをいえば、火に油を注ぐようなもので、相手が冷静になるのを待つしかない。ヒステリー性向と思えるものにはさまざまあり、自分を実際以上に見せよう、披露しようとしてムキになるのもヒステリー性格と見る。これは幼児性格の延長で、大人による幼児的依存心の表れといえなくもない。
いい年とった大人だから、子どもと同じような物言いや行動は慎まなければならないと思いながらも、それが形を変えて噴出する。「慎まねば…」という理性のコントロールができない。予算委員会などにおけるの山尾志桜里のヒステリックな醜態は好例だ。彼女も自分は間違っていない、いつも正しい、己の非を認めないというのがいたるところに噴出するヒステリー気質。
純粋で正直な子どもは慎むことなく、「我」を出す。慎むことができない大人も子どもと同じことだが、子どもは許せても大人はダメだ。父は、「忍耐」と手書した文字をあるところに置いていた。母のような女といるなら、「忍」の一字であったのだろうか。父は自分の前で母の悪口など一言もいわなかった。が、母親は釣りの収穫がない時でさえ父を詰ったりした。