世俗のことは書いてる側も面白い。人間がそこに生き、うごめく場であるからだろう。特に意識をせねば何となく通り過ぎていくだけの「生で」ある。だからか、意識をすれば楽しくもなる。意識することなく楽しくなることもあるにはあるが、意識をすれば、普段は気づかぬ人間の奥や裏の面白さが見えてくる。我々にとっては残された時間など、いくばくもない。
1月19日の記事「男を振り回す女」は、男が勝手に女に振り回されているという醜態を書いたが今回は違う。自らが故意に、意図的に男を振り回して楽しむ女は、そのことを挑戦的に公言する。「気をつけた方がいいわよ。わたし、男を振り回す女だから…」。という女がいた。いわれた記憶はあるが、その女とその後にどうしたこうしたという記憶はまったく消えている。
自分はこんな高飛車なことをいう女にそそられる性格である。そんなに言うのなら、「飲み込ませてやろうじゃないか」といった反骨心がメキメキ湧いてくるが、「調子こいて何を生意気なことを言っていやがるんだ」と、口には出さずとも腹で思って対処する。詐欺師が、「自分は詐欺師なので騙されないように気をつけた方がいいですよ」というはずがない。
被害にあって、「(詐欺師と)いわないから騙された」といいたいわけでもなかろうが、「そんな人には見えなかった」、「まさか詐欺とは気づかなかった」などの言い方も自己正当化の何物でない。騙されたと気づいた時に、「自分はそんなことに騙されるほど間抜けじゃない」という自尊心が自己弁護をいわせるのだろうが、何を言い訳をしたところで間抜けであろう。
と、言い訳を嫌う自分の考えはそう解釈する。裏を返せば、言い訳を嫌うから言い訳をしなくていいように生きている。そうはいっても、失敗をしない、人から詐欺にあわない、安易に騙されたりしないというのではない。そんな完璧人間を自負するほどに思い上がってはいない。しばしばミスもするし、ドジもあるが、だからといってそこで言い訳をして自分を助けない。
その方が本当は自分のためになるからと思っている。自尊心をカバーし、埋め合わせても何の足しになるというのか?こんなこせこせした人間でありたくもない。自分の行為は自分の責任以外に何もない。詐欺師に騙されようとも騙された自分の責任である。「騙したあいつが悪い!」と思うことで救われるなら他人のせいにすることもやぶさかではないだろう。
自分は、救われるとも思わないし、救われたいとも思わない。そんなことより、自分のバカさを悔いて晒して今後の教訓にと考える。その時、その場の失敗には、その時、その場に連なる何かがあると考える。それを見つけて改めない限り、同じミスや過ちは起こすだろう。根を断つことが大事である。自分はかつて人によく騙された。純粋で人を疑うことを知らなかった。
人を疑うことすらできなかった。人を疑うのはいけないことだと思っていた。これらを含めてよく言えば「人の善さ」、悪く言えば、「無知でバカ」、一般的には、「お人よし」といわれている。お人よしとは、何事も善意にとらえる傾向があり、他人に利用されたり騙されたりしやすいこと。決していい意味で捉えられてはいない。人から、「いい人だ」といわれる以外に益はない。
では、人から「いい人」といわれるのは益なのか?「人が悪い」といわれるよりはマシだろうが、自分はいろいろ自己変革を試みたが、「人からよく思われたい」を変えようと思ったのが、自分の最大の自己変革だった。あの時、自分に向き合い、自分に言い聞かせた。「心を鬼にせよ!」と。年代は覚えてはないが、20代後半で管理職に抜擢されたときだったかも知れない。
同じようにバカを言い合った同僚に対し、これまでとは同じようにやっていてはダメだと認識したとき、「ちょっと偉くなったからって、偉そうにすることもなかろう」と陰口を叩かれるのが嫌だった。「心得」という言葉は理解するも、毅然とできるかの自信はなかったがやるしかなかった。仲のいい同僚に、「今までと同じようにはできない立場」と理解を求めた。
「いい人でいたい」、「いい人でいる」のか心地よいものだが、いい人でいることで他人の悪に口をつぐばねばならない。さらにいうなら、他人に口をつぐむことは、自分にもそれを望んでいるということでもある。「俺はお前に何も言わない。だからお前も俺に何もいうな」といった、心にニヒリズムを隠し持った関係である。それはいいことか?現状維持にはよかろう。
が、それが前向きな関係か?互いが向上し合おうとする関係か?といえば「No!」。友人を描いた作品をいくつか知る。漱石の『こころ』の二人は、いかにも日本人的なネガティブな関係だった。それからすると『グッド・ウィル・ハンティング』のウィルとチャッキーはポジティブな関係だ。天才的資質を持つウィルに、「お前は俺なんかとつるんでる人間じゃない」。
チャッキーは事あるごとにウィルに言い続ける。「ある朝、いつものように俺がお前の部屋を訪ねたとき、部屋は空っぽでお前はどこかに旅立っている。俺はそれを願っている」。そしてある朝、チャッキーのその思いは叶えられた。ウィルは自分の可能性を求めて何処へと旅立っていた。映画の副題は、「旅たち」である。青春とは保守であってはならない。可能性を信じること。
聞き飽きた言葉であるが、物語に収められると新たな感動を呼ぶ。日本映画にもこうした突き放す友情もあるのだろうが、寡聞にして自分は知らない。そういえばミッキー安川が渡米しての高校に入学したが、テストの際にカンニングをしていた彼を教師に言いつけたのが彼の友人だった。そのことでミッキーは放校処分になるが、引っ越しの際に友人は手伝い、汗を流した。
あっけらかんとした態度の友人に訳の分からぬミッキーは、「なぜカンニングを言いつけたのだ?」と聞いたとき、「君はこの国に語学を学びに来ているんだろう?その君が不正をするのはぼくとしても許せないこと」といったという。さらには、ベトナム還りの兵士がある村を焼き討ち、村民を虐殺したことを友人に話したところ、彼はそのことを司法省に告発した。
宗教的バックボーンのある民族と八百万の神の日本人との違いなのか、横断歩道を皆で渡ればいいという日本人とアメリカ人の差を感じるものだった。表題からズレたが、「男を振り回す女」をお利口で良い女だと、そんな程度の女に操られる男もヘタレというしかない。そんな程度の女と、そんな程度の男がいるのは事実だから、どちらも批判する方がまだマシか。