「気をつけた方がいいわよ。わたし、男を振り回す女だから…」。面と向かって男にこういうセリフを吐く女は、気が強いと思いきやそうともいえない。女は心と言葉と裏腹な場合が多く、言葉で断定するのは間違い。上記の女は自尊心が高く、男に媚びないタイプの場合もあるが、感情的になって物事を見失いやすい女が、自制も兼ねての事もあり、正しい見分けが必要だ。
男をはべらせ、振り回すのが快感という悪女気質もいる。「悪女は女の理想」というのを耳にしたことがある。「女は悪女がいい」という悪女ブームの時代は、ある時期存在した。そうした、「悪女礼賛」の世相を象徴する中島みゆきの『悪女』は1981年のヒット曲である。それが発端だったのか?その2年後、「金曜日の妻たちへ」が主婦をテレビの前に釘づけにした。
不倫という言葉はここから生まれた。それまでは、"よろめきドラマ"という手法で、よろめきとは、夫のある女性が他の男性に心を寄せるという意味。どちらも一度も観たことがないし、こんなものは主婦の潜在的浮気願望に他ならない。手の早い男は何に影響もされず、真似ることもなく、さっさと手も足も出すが、一応主婦なる看板を挙げた女には言い訳が必要なのだろう。
せっかちな自分は連続ドラマという手法が好きになれない。この手のドラマを始めて観たのは、『東京ラブストーリー』であった。愛媛出身の大学生から勧められて、全編を一挙にレンタルで観たが、結構面白かった。彼女は、「赤名リカってどう思う?あれって重い愛なのかな~」と問題提起をした。物事の軽重を意識したことのない自分は、世はそういう世相かと考えさせられた。
「重い話でごめん」とか、「重い愛」などと、自分にとって巷いわれる「重い」の感覚が分からないのは、どれも普通の認識である。したがって赤名リカは普通の愛情表現に映った。愛媛は完治の故郷で、ドラマのラストを飾る愛媛県松山市の『梅津寺駅』は観光名所となり、全国から恋に憧れる乙女たちがおとづれて、ハンカチを巻き付けて行ったという。
愛媛の女がはまるのも無理もない。確かに面白かったし、鈴木保奈美の都会的な顔立ちと、織田裕二の泥臭い顔のギャップがトレンディドラマというにはリアル感を醸していた。このドラマで悪女とされたのは有森也実演じる関口さとみであったが、自分にはそうは思えなかった。さとみは悪女というより、こういう憶病で優柔不断な女はどこかしこにいて珍しくはない。
もし女に振り回される男がいるなら、それが完治であり、リカは実際にはあり得ないようなぶっ飛んだ女であったようだ。保守的で真面目な完治はリカについていくことができず、類は友を呼ぶの論理で保守的なさとみを選んだに過ぎない。それほどに完治は、みていイライラするがごとくリカに振り回されっぱなしだった。そういう設定だからイライラするのだろうが…
完治とリカの愛を望む視聴者は、「さとみなんかクソ女だし、マジで邪魔!なんだい、あの電話!ふざけんな!」などと苛ついていたというが、自分にはさとみのおどおどしさと、完治に取り入れられる女の本能性を理解した女に見えた。一方のリカはそうした恋愛のテクはまったく使わず、いつも真正面から自身の気持ちに正直に素直に生きている女である。
それで恋愛の敗者になるなら望んでそうなろうという女の不器用さは、かえって誠実に感じられもした。ドラマの最終回、リカが完治の故郷を訪れ電車の中で過ぎ去った日々を思い浮かべて泣くシーンは、恋愛の敗者ではあるが、彼女は人間としての真っ当な生の勝利者である。「忘却とは忘れ去ること」。愛媛の旅路は一切を忘却とするための行為であった。
そうして、我々は新たな赤名リカを目の当たりにすることになるが、この清々しさこそが、リカが過分な代償を払って得た大きな心である。彼女はどこまでも大きい女を目指していたに過ぎない。恋愛というのは、人間の生の目的において、ほんの矮小なる一分野にしか過ぎない。その部分にだけに釘付けになっていたのでは、木を見ても森を見ることのできない人間になろう。
赤名リカも決して男を振り回す女ではなく、鈍い完治がリカの気持ちを理解できずに翻弄されていたに過ぎない。あのまま彼はリカと結ばれたなら、生涯彼女に翻弄され続けたであろうから、さとみと結ばれたのはまさに適材適所の良縁である。人には相性というものがある。相性はまた、合わせていくよう努力も大切だが、翻弄されるなら相性的には悲劇である。
人を理解するというが、どうしても理解できぬこともあり、「理解できないことを知る」という理解の仕方もあるわけだ。であるならば、「翻弄」という宙ぶらりんな状態は決して良いことではない。「恋の成就」という言葉ほど理解できぬものはない。何をもって恋の成就とするのだろう。「結婚」という考えもあり、「両想いになった」ことを成就という人もいよう。
そうであろうか?みんなに祝福され、心のどこを探しても翳りのないほどに晴れがましい恋など、持続するわけがない。そんな恋には永続的に二人を結びつけるものなど何もない。むしろ悲恋には、ともに悲しい運命に耐えているという連帯がある。不倫の恋には、互いが罪を犯してしまったという共犯者としての連帯がある。結び付きの根拠という点では得恋に勝る。
なぜに人は遂げられぬ恋に対して悲観的な見方をするのだろう。他人の不倫に対してなぜ関係のない他人が批判するのだろう。軽犯罪である立小便を批判するなら分かるが、不倫に何の罪はない。批判の裏には羨望があり、そうした妬みなどの屈折感が批判となっている。渡辺淳一の『失楽園』が日経に連載され、がんじがらめに家庭に縛られた金融・証券マンの心を潤した。
羨望とは、自分がしたくてもできない事をやってのける人に抱く心情である。不倫の恋も恋である。性の部分だけ取沙汰されるが、不倫という言葉があまりに情緒がなさすぎる。昔は「道ならぬ恋」といった。誰が誰を愛したところで、その愛自体に罪はない。『シリウスの伝説』という作品がある。水の国のシリウスが火の国の少女マルタに恋をし、二人は親の目を盗んで愛し合う。
かつてこの地上には、真っ赤に燃える火と、もうもうと立ち込める水煙が一かたまりに渦巻いていた。火の女王テミスと水の王グラウコスはとても仲がよい姉弟だった。それを嫉んだ風の神アルゴンが、二人に互いの陰口を吹き込む。裏切られた思いの二人は激しく怒り憎しみ、テミスは陸に炎の宮殿を、グラウコスは海に水の城を築き、一族同士も決して見えることはなかった。
火と水はもともと共存し、繁栄していたのだが、あることを契機に袂を分かつ。親同士が姉弟ならマルタとシリウスは従兄弟となり、それを知る親たちは許されぬ恋と二人を幽閉する。二人は愛を誓い、火と水がともに暮らせる星に旅立つため、90年に一度だけその星へと胞子が飛び立つクライン草の咲く、メビウスの丘へと向かうのだが…、シリウスは力尽き死んでしまう。
遂げられぬ恋は文学や演劇などでさまざまに語られているが、なぜにこうも美しいのだろう。人間の精神が純粋であるなら、悲恋であるか、互いが罪の意識におびえて格闘する以外に恋の永続はない。ところが、昨今は蓋を開けられた途端に、不倫を告発され自己防衛のために離別する。純真な「道ならぬ恋」どころか、つまみ食い的な性の連帯といわずしてなんであろう。