人間に限らずすべての生物は死ぬまで生きている。なにものにも立ちはだかる死に対して抗うかの如く生きている。よって、死ぬまで生きようというのは、ら、「人の死は自然にまかせておけばいい」ということだが、人間は自然死ばかりではなく、自ら命を絶つものもいる。早く死んで幸せな者、長く生きて不幸な者もいるからして、長寿が幸福とばかりは言い切れない。
どちらにせよ人は生きてる間中思考をすることになり、我々が生きているということは、この時、この場所において生に取り組んでいるということになる。我々が少しでも長く生きたいと思うのは、死が「無」であることを知っているからで、自分がこの世から消えてしまうことへの恐れでもあろう。死は無であり、ゆえに自分が死んだことも、この世から消えた実感もない。
それでも死を嫌がるのは、他人の死から死への無常観を感じるからだろう。人間は他人の死を通してのみ死を実感する。死とは生の対極にあり、健康にも何ら問題なく生きる者にとって、死は遠きもののように思われるが、ペットの死、身内の死、ニュース報道に見る事件や事故の死など、あまりに身近であるのも事実だ。死とはなにかといえば、死とは現象であろう。
息もしない心臓の拍動もない、そんな動かない人を見て、「この人は死んでいる」言ったりする。そして、それを「死体」と呼んだりする。が、動かなくなった体、つまり死体のどこに死があるのだろうか。死体から死を取り出して見ることなどできない。動かなくなった人から動かない心臓を取り出すことはできても、それはあくまで動かなくなった心臓であって死ではない。
つまり死は状態である。死体は見ることができても死は見ることができない。誰それさんの死体を目の前に我々は、誰それさんの死体を見るが、死を見ているわけではない。死体と死は別のものである。死とは目の前の誰それさんの死体ではなく、誰それさんがこの世から消えたということだろう。人が死んだとは、目の前の死体ではなく、この世から消え去ったことをいう。
それが一般的な死の現象である。やがて死体は焼却され、自分の目の前からもこの世からも完全に消えてしまう。誰それさんが自分の父親なら、父が死んだということはそういうこと。父は死んだと思うことなくこの世から消えていったように、自分も同じ運命を辿るだろう。いつの日か自分は死ぬが、死んだという意識も認識もなく、残された者だけが自分の死を認識する。
我々は生を得た以上死ぬのではなく、死ぬために生れてきたといえる。もし、自分が死なないのなら、何のためにうまれてきたのだということになる。そのように考えると、死ぬということは大切であり、死が大切であるからこそ生が大事なものとなる。したがって、「限りある命を大事にする」考えは、どこから見ても真っ当である。なのになぜか死に急ぐ人がいるのはなぜなのか?
なぜ、死んでしまいたいという気持ちになるのだろうか。死ねば苦しいこともなくなって、スッキリすると思うからだろうが、死ぬということは実はそれすらない。つまり、苦しさから解放されたという実感さえないのだ。死んでないものなら、死ななくたっていいではないか?「生きてるから実感させられる」と思うのだろうが、決して死んでなくなるものではない。
死とはそれほど非情なものである。苦しさから逃れるために死を選択するのは、「間違い」とまでいわないが、出来ることなら生きる範囲の中で解決すべきである。考えるということは、それがどういうことかを考えることであって、それをどうすればいいかを悩むことではない。ただし、それがどういうことかを考えて分からなければ、どうすればいいのかを悩むのは当然だ。
したがって、やらなければならないことは、漠然と、悶々と悩むのではなく、それがどういうものでどうすればいいのかを追求し、突き止めることではないのか?それを一生懸命に考えるなら、死んでる暇なんかないだろに。自分は自殺を食い止める方法を述べているのではない。自殺という究極の選択は、そうそう簡単に回避できるものではなく、ロジカルに解決できるものではない。
人間が感情の動物である所以だ。末期がんでホスピスに入所することになった「遠い蒼空」さんの発した一言にある種の感慨を受けた。「死ぬのか、オレが!」という言葉である。言葉の真意は何かと考えた。「死に対する疑い」、「死を忌避できぬ己が無力さ」、「死を現体験するという想像力」などなど…。いかんせん、死を想像すらできない人間の思考の限界…。
末期がん患者の多くは余命宣告をされている。宣告されないのとされるのとどちらが良いのだろうか?こればかりは当事者の性格によるから一概には言えない。自分なら宣告されるのが良い。ある朝ふいに刑務官が獄舎に現れ、開錠し、「本日、執行の日となりました」と宣告される死刑囚の心情はいたたまれない。彼らは驚くのか?あるいは命運これまでと即座に悟るのか?
これも個々の性格によるだろう。それよりも、〇月〇日に刑を執行すると決められていれば、その日に向かって気持ちの整理や心の準備ができよう。人によっては、「期日を決められることは朝が来るたびに命が縮められるようでたまらない」という考えの人もいよう。しかし、朝がくる度に命が縮められるのは事実である。期日というのは決まった日であり、待ってはくれない。
どちらが自分に適しているかで決められない。執行日は法務大臣の腹積もりで決まるということ。末期がん患者の余命宣告はあるにはあるが日時まで決められるものではないし、幅がある。ゆえにか、「半年の命といわれたものに、もう一年以上も生きている」などの言葉を聞くが、そりゃ嬉しいだろう。捨てた命が長らえるは、どんなに美味い料理を食する以上の喜びだ。
運命論者は人の命は日時に至るまで決められているという。バカをいうなって!仮にそうであっても、誰がそれを教えてくれるのだ?いたら自分の前に連れてこい。まがい物、偽物預言者はそれこそ履き捨てるほど見たが、決まっている運命を指摘できないなら、「ない」も同じだろう。もうちょっと現実的になれよ、運命論者ども。「科学で分からぬことは沢山ある。」
そんな言葉は聞き飽きた。解明されていない事実は沢山あるといいたいのだろうが、あってもなくてもいい。問題は解明されていく姿勢である。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」と古人は言った。尾花とはススキの穂のこと。これは幽霊などいないといってるのではなく、「怖い怖いと思っていると、なんでもないものまで怖く思えるものだ」という意味であるが、真にそのとおり。
運命、運命といってると何でも運命になってしまう。それがひいてはネガティブな気持ちを引き起こすこともあろう。だったらいっそ、「運命などと、そんなものは屁でもない。オレが運命を変えてやろう!」くらいの意気込みがあるべきだ。あらかじめ物事を決められるほど癪に触ることはない。学歴がなんだ、階級が何だ、金持ちが何だ、そういう気持ちが物事を変えていく。