当たり前のことだが、その間を成長といい成熟という。それらを人生ともいう。人は誰も死ぬから、だから死ぬまでいきようということだ。生まれてこの方どれだけの数の人間に出会ったのだろうか?カウント数も分からない、記憶にもない。出会ったというだけでなく、交流してきたかである。何百人なのか?何千人なのか?見当もつかないが、何千はないだろう。
交流といっても、どの程度の交流かということもあるが、人間という生き物は実に多彩である。それがすべてでそれしかない。純真な人もいれば狡猾な人もいる。良心的な人、貪欲な人、立派な人、悪辣な人、率直な人、気を許さぬ人、人間全般的な形容詞はいくらでもあげられるが、生活の中で実感する人の顕著な特徴に思いを馳せてみると、以下のような特質が浮かぶ。
何をやっても中途半端な人。すぐに疲れてしまう人。何をやるにつけても熱心に集中し、それなりの結果を出す人、ちょっとやそっとでは疲れるなどといわない人。実際にそうなのか、疲れたなどといわないのかどちらか分からないが口には出さない。こうした人の顕著な相違というのは、体力とか健康上の差の問題というより、おそらく精神的な要素に違いがあると思われる。
何をやるにもこまめな人。億劫だという人。いわなくても面倒臭がり屋なのは見ていて分かる。周囲と上手くやれる人、そうではなく、必要なとき以外は何かと人を避けようとする人。元気で張り切ってる人と何事にも楽しそうでない人に客観的な条件に特別な違いはないのに、その差も心の問題か?本人たちが違えば、当然ながら彼らの周囲の人の在り方・気分も違ってくる。
ひまわりが己を太陽に向けるように、いつも明るい人を向陽性という。そういう人が集団の中に一人いるだけで、その集団の雰囲気は明かるいものになる。いつも不機嫌で、笑顔さえも無理して作ってる人とは雲泥の差である。同じ会社に勤め、同じ体を持つ人間でありながら、どうしてこうも違っているのか?同じ学校を卒業し、同じ生活レベルでありながら一方は楽しい人生。
他方は概して不機嫌に不機嫌な一生を送っていく。こうした差の元になるものは何かと思考すれば、その人の育った環境であるのが分かる。環境というのは、その人の情緒的な成熟に大きく寄与するからだ。そうした情緒的成熟過程が人に決定的な差を生んでいる。情緒的な成熟とはどのように育まれていくのだろう。何より重要なのが批判精神ではないかと思っている。
常々、「批判が自分を作る」と思っている。なぜなら人間は自分を正当化する類まれな能力を持っており、社会もそれを容認することもある。自己を正当化できるような言い訳可能社会は決して人間に良いとは言えない。なぜなら自分を甘やかし、周囲もまた甘やかすようでは、甘えた人間を作ることになる。ひねくれた人間の多くは言い訳多用人間という見方ができる。
その昔、自分を、「バカ」だと羞恥もなく公言できる人間をあまり見なかった。他人からバカ呼ばわりされただけで自尊心が傷つくのが真っ当な人間だが、平気で笑顔で、「わたしバカなの」といい、周囲もそれを許す社会というのはどこか奇妙である。しかし、価値観の多様化の中で生まれた、「キャラ」という言葉に寄り添い、「キャラ」といっておけば周囲が容認する。
「彼女はおバカキャラだから」というように。本質的にバカであっても、それを恥とは思わず、周囲もバカだと見下さず、容認されてしまうなら、彼女にとっての自己向上とは美しく着飾ることだけなのか?昔は、「抜け美人」といったもので、美人ほど抜けた(頭の悪い)者が多いとされた。美人は容姿だけでちやほやされるので、賢くなくても引き合いがあったのは事実。
林真理子も自伝にあるように、ブサイクにとっては何らかの能力は必要で、それが講じて惜しみのない努力ができるなら、ハンディをむしろ長所に変えることにもなろう。もっとも美人もそれなりに美しさを維持する努力をする人も、知性や教養を身につけるべく努力をする人もいるわけだが、何もしない美人というのは、どんどん美貌が衰えるだけとなるのだろう。
自身と貪欲さに裏付けられた自己肯定感は大事である。なぜなら、その人が自分に満足していれば、他人も満足するであろうから。自分に自信がなく、努力もせず、自分に対して投げやりな言動をし、自分を他人によく見せるような演技力ばかり磨いたところで、他人はその人を受け入れない。つまり人間は、自分をどう感じているかによって、人間関係も上手くいくしマズくもなる。
だったら、自信を持った方がいいに決まっているが、その自信が身につかない。なぜなら、自信を持つためには努力が欠かせないからである。自分を信じる努力だから、他人の眼に触れないところで自らのためにやる。そうした人に自信はもたらされる。何もしないでただ他人の関心を引こうとしても、結局は本来の自分に逆らっていることになり、誰も関心を持ってくれない。
自分を偽らなくても他人に好感を持たれるようになるには何が大事か?まずは自分を隠そうとせず、ありのままに晒して、足りないものは身につけ、足るものは維持し、余分なものは吐き出すことだろう。そうした自己のアイデンティティの構築に、本当は親がプラスになればいいのに、むしろ子どもに価値観を押し付けて足を引っ張ろうとするような親が多いのが実際だ。
仮に親といえども、「あなたの望むような生き方を押し付けるのは止めてもらえないか!」とキッパリ言えるような子どもは、親の用意した揺り籠から抜けられるはずだ。「親のいうことを聞いていさえすれば何でもしてくれるし、楽でいい」と、こういう子どもに育てた時点で、本来的な教育から逸脱したことになる。親と子は共依存から自立へと変革していかねばならない。
「いつまでも、あると思うな親と金」という慣用句を、親が真剣に考え、憂いもするなら、子どもに何が大事かを伝達できるだろう。子どもにとって親に見放されるのは何かと不安であり勇気もいるが、傲慢な親の存在に反発できた子どもは、自ずと自立の道を開いたことになる。「這えば立て、立てば歩めの親心」は、子どもの自立以前には大事だが、後生大事にするものでもない。
子どもの成長に合わせて、柔軟に、臨機応変に、親の態度や在り方を変えていける親こそ、本来の親である。「それができるか?」という問題ではない。「それをやらねばならない」という親の使命である。ニートを作り出すのは親の問題も少なからずある。一時期流行った、「パラサイトシングル」という言葉は、いつの間にか、「ニート」という言葉に変わった。
「パラサイトシングル」とは、"すねかじり"として否定的な見方をされたが、「ニート」は若年無業者という容認か?若年がどのあたりの年代かは問題にされるべきでは?30超えて若年であるはずもなかろう。こんな言い方は止め、「パラサイトシングル」に戻した方がいい。英語でボカし、和らげることも止めて日本語で、「親に寄生するバカ息子(娘)」と辛辣に呼んでいいのでは?