いつしか「文春砲」という言葉が生まれた。「砲」ってなんだ?弾丸をはじき出す仕掛けの武器、とある。子どもの頃に「運動会の歌」というのがあり、2番の歌詞は♪ズドンと打ち出す号砲に…である。子どもながらに号砲の意味が分からぬが、スタート合図のピストルのことだと思った。「文春砲」も、芸能人のプライベート弾(ネタ)をはじき出す仕掛けの武器なのだろう。
どんな人間にもプライベートはある。「Private(プライベート)」は私的ということだから、反語は公的「Public(パブリック)」となる。人のプライベートを暴いて、「裏の顔」などと表現するのはタチが悪い。そんな言い方って、まるでトイレという個室でウンコしてる顔を盗撮し、「これが〇〇の裏の顔」といってるようなものだろう。どこが裏の顔であろう。
もうちょっと辛辣にいうなら、人のウンコする顔見たさに週刊誌を買う人が変態ということにならないか?「ウンコする人、それを撮る人、見たい人」という図式となる。「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」というのは阿波踊りの囃子言葉だが、する人と見る人を同列にし、見てるくらいならやれよと言っているのだが、文春砲というのはそれとは違う。
知るべきことではない、見るべきことではない、それらのものを手間暇かけて世間に知らせることに何の意味も意義もないが、それを喜ぶ人たちのためにやっているのだ。「文春砲」が悪いのではなく、それを喜んでみる人こそがバカである。他人をバカ呼ばわりするのは簡単で誰にもできる。文春砲を喜ぶ人でさえそれを隠せば他人をバカ呼ばわりできるのだ。
要するに「バカ」は隠しておけるのだが、そういうやつらを一人ずつ文春砲が暴いていったらどうなるか?バカの正体丸出しということになる。要はそういうこと。他人をバカ呼ばわりするものもバカなのだということ。それが露呈したかしていないかの違いでしかない。プライバシーとはそういうもの。が、暴く者には商売という大義がある。では読んで快感を得る者はただのゲス。
大衆には品位あるものと品位ないものがいる。品位なき大衆をゲス(下衆)というが、「下衆の勘繰り」とはそこから出た言葉。なぜ人の不倫が面白いのか?それは下衆の仕業である。今回の小室哲也の不倫疑惑にはこれまでにない世間の反応があった。世間はどちらかというと、女性の不倫に厳しいようで、小室の場合はそれもあってか同情的な意見が多かった。
もちろん、小室の才能を惜しむ意見も多いが以下がその一部。「他人のプライバシーやデリケートな部分を推し量らずに、心も理性もない報道をするのはもはや人間の所業てはないと思います」。「某コンビニを経営してますがもう文春は陳列しないことにします。卸の業者にも絶対に納品するなと連絡します。本部なんか関係ない頑なに拒否します」。「さっさと廃刊して下さい」。
「小室さんを返して!あなたたち、小室さんを追い込んだだけでなく、ファンから生き甲斐や希望、楽しみも奪ったんですよ?許さないから」。「週刊文春を絶対に許しません!!GACKTさんの時もそうだけど、人の不幸で食べたご飯がそんなに美味しいですか?文春方全員がゲスの極みですよ」。「先生を引退決意させた文春を私は許さない」など、思いのほか強い口調。
寡黙で強弁を発しない芸術家肌タイプの小室ならではのエールかも知れない。自分は会見を見ていないし、録画も最初の数分を観たに過ぎない。自分的には見たいものではなかったからで、最初に小室がこれで引退といったときに、野球選手や大相撲の関取同様、ミュージシャンに引退という言葉があるのかと。断筆という言葉を使う物書きはいて、画家に引退の言葉はない。
囲碁や将棋の棋士の引退は、公式戦に出られないことだが、ミュージシャンはステージや録音をしないということ。小室はプロデューサーでもあり、仕事の内容といえば裏方作業であるが、引退とはすべての活動をしないということだろう。才能を惜しむ声は多いのだろうが、同情はすべきでない。凡人が有能者に対する同情というのは、どこかそぐわぬものがある。
もっともニーチェは、「同情というのは相手を見下げることによる快楽」といっているし、弱者に対して、悲しく惨めな人だと哀れむのは、同情の名を借りた自己満足のように思えてならない。心が健康な人間は、そんなことで満足を得たりはしない。小室の会見の記事には、「この5、6年、男性としての能力はない」とあった。そんなこという必要があるのだろうか。
自分にしか分からなぬことをいっても何ら説得力にはならず、「ない」もは、「ない」でいいのよ。物理的に不可能といったところで、それと女性への興味は別だろ…。巷にはバイアグラ飲んでいたす者もいる。露骨にいえば勃たなくとも女性への興味を絶やさぬ男は多い。「恥ずかしながら」と前置きをしたところで、話に尾ひれをつけすぎると、かえって信憑性を疑われる。
「物言えば唇寒し秋の風」と詠んだのは芭蕉である。人の短所を言ったあとは 寒々とした気持ちに襲われるという意味であったのが転じて、何事につけても余計なことを言うと、言いすぎて災いを招いたりする。いかに雄弁であれどそれは銀、沈黙という金には及ばぬとはその通りであろう。自分はそれにプラスし、「詭弁は鉄」を付け加えている。銅にも及ばぬ鉄である。
その際友人が、「鉄では勿体ない。ブリキだろ」といったが、ブリキは缶詰の容器に使われる鋼板にスズをめっきしたもので、スズは錆びないが鉄は錆びる、錆びない点でいえば鉄よりブリキが勝るだろう。 小室の控えておくべき無用な発言を迂闊と悟った自分だが、物が使えなくなろうとも、女の柔肌に興味を絶やさぬ男の「業」というものを想起させられた。
世の中には深読みする人間もいるので、だから「沈黙は金」というわれる所以だ。理知的に整理された文章を用意したところで、他人から見れば「下衆の勘繰り」も含めて得にはならない。英雄は色を好むというのも、英雄といわれる人物には、様々なストレスなどの心労や雑務に追い立てられる。それを唯一解放してくれるのが、女性であるということかと。
英雄のプライバシーを暴き、事を荒立てれば英雄が英雄でいられない。その意味でも文春のやることは、亡国の誹りを免れぬ愚行である。かつて主婦連などが行った「不買運動」が功を奏したように、有名人の不倫を暴いた号が売れなくならない限り、文春砲が止むことはないだろう。芭蕉は、「秋深き隣は何をする人ぞ」と詠むなど、のっぴきならない人間の矛盾を現している。