18日午後10時すぎ、東京・大田区のマンションで、父親で会社役員の鳥屋多可三(58)の腹をナイフで刺したとして、殺人未遂の疑いで現行犯逮捕された慶応大学生の鳥屋智成容疑者(20)は、一階の居間で弟と多可三さんの口論を止めに入り、「やめないなら刺すぞ」と、刃渡り13cmの果物ナイフで多可三さんの腹を1回刺したという。別の部屋にいた母親から119番通報があった。
警察官らが駆けつけたところ、父親の多可三さんが腹から血を流して倒れていて、病院に搬送されたが、まもなく死亡が確認された。調べに対し鳥屋容疑者は、「刺したのは間違いない」と容疑を認めているという。田園調布署によると、智成容疑者は多可三さんと50代の母親、弟の4人暮らしで、事件は多可三さんが弟に説教をしているのをやめさせようとして起こした。
Facebookによれば父親は慶應出身の会社役員で、長男も慶大生、次男は慶應高生と世間的に羨まれるような家族環境という見方もできるが、弟に加勢したというだけでなく長男自身も日頃から腹に据えかねてる事があって、ついカッとなってしまったと想像する。智成容疑者の風貌は優しく柔和に見えるが、「(説教を)やめないなら刺すぞ」という言葉には決意が見える。
第三者による一般的な口論の制止は、「いい加減に止めろよ!」と思われるが、どういう状況のなか、これまで父親に対する何らかの鬱積があり、それが弟と父の口論の場で、「やめないなら刺すぞ」となったにしろ、本当に父を刺したことを見れば、感情的になったというだけでなく、父を亡きものにしたいという決意すら感じられるが、いかんせん状況が分からない。
こういう場合にいつも思うのは、殺すという手段の他に殴る・蹴るなどして相手を威圧する方法があったろうに、犯行に使った果物ナイフがどこにあったかも気になる。たまたまテーブルの上にあったのでつい手に取ったというのと、わざわざ置いてある場所に取りに行ったというのでは、公判でも大きく変わってくる。時間は元には戻せないが、殺す以外の方法はあったはずだ。
それなのに、殺意を込めてのナイフということなら、智成容疑者にとって父親はこの世から消えてもいいくらいの憎悪があったとも考えられる。ましてや、自分と父親による修羅場でなく、弟と父が争っている状況だ。あくまで一般論でいうなら、人と人との喧噪場面に第三者が制止に入り、しかもその第三者が当事者のどちらかを刺し殺すというのは聞いたことがない。
止めに入る側というのは基本的に傍観者であろうから、何を好んで殺人者となるリスクを負う必要があろう。そのようなことを含めて考えるに、本件において善意の第三者という立場を逸脱した兄(智成容疑者)は、弟と同じ心情あるいは、それ以上の憎悪を父親に持っていたと考えられる。兄は決して傍観者ではなかったということができよう。もしくは相当の弟思いだったのか。
可能性というのは種々考えられるが、やはり傍観者がこれほどのリスクを侵す行為をしたことが、ただならぬ状況と思われる。昨年の11月21日、青森県弘前市で無職で35歳の息子が、二人暮らしの母親を刺殺した事件があった。殺人容疑で逮捕された水木久志容疑者は、数年前から母親に小言をいわれ続けていたという。事件のあった日、弘前は記録的な豪雪だった。
母親の悦子さん(62)は朝から自宅周辺で雪かきをしていたが、久志容疑者は母から、「仕事も雪かきもしてくれない」といわれたことに腹を立て、同日午後6時半ごろ、刃渡り約15センチの包丁で悦子さんの背中を刺したという。から、時間の経過を見ても、カッとなって衝動的な咄嗟の犯行とは言えない。また、久志容疑者が110番通報したのは同日の夜11時半であった。
調べに対し久志容疑者は、事件を起こしてからの約5時間、「自宅でずっと泣いていた」と供述し、後悔も口にしているという。取り返しのつかぬ行為に対するさまざまな思いが交差したと推測する。本人の供述にはないが、おそらく死ぬことも考えたとも思うが、そうした勇気もなかったのだろう。こういう場合の自殺は思い切りが必要だが、それもない優しい子に思える。
親を殺す、人を殺すなどは、心の歪んだ気性の荒い性格の持ち主ではなく、むしろ、穏やかで心の優しい子が八方道を封鎖されて、どうにもならない状況に追い詰められ、それでも生きるためには、何より自分に障害となるものを亡きものにしようとする。不良にもなれず、親に依存する心苦しさを感じる反面、依存対象から追い詰められ、やり場のない苦しみは増幅するだろう。
親子の共依存は一般的に悪害とされるが、子どもが30歳、40歳になってもそれを続けているなら、もはや双方が徹底的に依存を貪った方がよいのかも知れない。糸のついた凧が順風を受け、その糸が突然切れたらどうなるか?制御バランスを失ってグルグルと回転して落ちていく。唯一の心の拠り所であった母に詰られ、批判されれば久志容疑者にとってこれほど辛いことはない。
子どもにとって親の小言ほど感情を損なうものはないのは経験した。確かに小言というのは、陰険で抑圧的で、真綿で首を絞められるような、それくらいに神経を逆なでさせる。威勢のいい売り言葉ならまだしも、陰険な言葉はじわじわ感情を圧迫する。母と娘ならどうかなどは自分には分からぬが、こうした陰険さは男社会に少ないだけに、男にとってはたまらないもの。
母親の小言にイライラするというのはしばし耳にするが、自分はまさに小言三昧の日々であり、それに対抗するために耳栓をポケットに忍ばせ、小言が始まるとワザとそれを耳に入れて、「何かいったか?」と挑発した。やられた側は、これほど頭にくることはなかったようだが、恒常的にいい方法と思った自分はそれを続けた。すると不思議に相手も慣れてくるのである。
一種の知恵だろうが、こういう知恵を使われると親も堪忍するしかないのだろう。相手を困らすのが最善なら、困らせられない方法は相手が考えるしかない。母親は、自分が気に入らない自分の持ち物を隠すというのをよくやった。その対抗措置として母のタンスの中の洋服や着物をそこら中に散らばせて抵抗し、「隠すと大探しするからこうなる」と突きつけた。
このようなことになる原因は母親にあるということを認識させるためである。こんなことをされては母もたまったものではない。それ以降、物を隠すことをしなくなった。苦肉の策で考え出した弱者の対応策だが、戦術・戦略としては優れたものだったかも知れない。相手から困らせられるなら、それ以上に相手を困らせればいい。これこそが最善の戦術・戦略かも知れない。