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男を振り回す女

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「あの女は男を振り回す」とか、「いい加減あの女に振り回された」とかの言い方をする男は少なくなかった。自分にいわせると"男を振り回す女"など存在しない。なぜならそういう女は、男を振り回そうとの意図でやっていない。振り回された男の女への愚痴でしかない。女にいい顔をしたい男の卑しさが、ひとのよさを見せつけたりするから女の情緒に振り回される。

女の情緒に振り回される状態とは、その場、その時の女の思いや言葉に順応していることをいう。後先考えない女、後先ない女は、その場、その時のことだけで何かをいう。それがいかに理不尽であろうが、道理に反していようが、男には理解できぬままに女に同調してしまう。バカな男はそれを優しさと勘違いするようだが、そんなものは優しさではなく卑しさである。

男には女の性質が理解できないのは当たり前田のクラッカーだし、分かったようなことをいう自分でさえ、本質は分からない。分からないけれども、経験が教えてくれたことは沢山ある。したがって、分かった上での行動というよりも、分からぬままに経験から選択することが多い。所詮人間は分からぬままの行動をするものだが、人に人は分からないという前提からである。

国民栄誉賞を取った羽生善治永世七冠は、「将棋の本質は自分にはまだわかっていません」。といったが、以前から彼はこのようなことを述べていた。「千人とやっても女は分からない」という名言は、言葉は悪いが比喩的な言い方で、親しく付き合ったということだろうが、自分とて結構な月謝は払ったものの、「女の本質は自分にはまだ分かっていない」のが正直な答え。

同性(男)の方が理解はしやすい。男が同性に欲はなくとも、異性にそれなりの欲を持つのは、「なぜだ?」といわれても正確には答えられない。無意識化の領域部分が大きいからだろうが、たくさんの経験を踏むことで、本質理解には至らぬとはいえ、それなりの理解は得る。羽生永世七冠が将棋の達人であるのも同じ理由であろう。ゆえにか、あえて本質に言及している。

「女」という言い方は一般的な全体のくくりであって、個々には様々な相違がある。「弱きものよ、汝の名は女なり」の有名な言葉が誤訳され、社会に浸透すれば弱くない女も借りてきたネコのように弱さを演じ、それで味を占めてきた部分は多分にある。それほどに「女」は弱きものの代名詞として使用されていたが、昨今はネコを被るのもうっとうしくなったのだろう。


本性むき出しで生きられるなら、その方がずっと、づっと、ZUTT、生きやすい。しかるに昨今は、誤訳であったシェイクスピアの名言でさえ死語になっている。女の浮気や不倫が珍しい時代もあったが、こんにちの女はネコや杓子をもって堂々浮気をやり、不倫をやるように、この部分においても男女同権の時代である。「女だてら」が死語になれば、女の強さが際立ってくる。

元々、本質の弱い男に筋肉や力を神が与えたのは、無神論者の自分でさえも納得する。強さを隠匿し、弱さで男に哀願する女を数多く見た。自分に非があるような行為・行動をしても、猫なで声で男に許しを乞う女にうつつを抜かした若き日の自分であった。女の周波数の高い声は、男からすれば優しく心地よい響きとなる。もし、しわがれた太い声だったら、それこそ女はキモイ。

女が男のペニスを「美しい形」と哀願したくなるのも、性欲本能のなせるわざ。女の気色悪い造形の性器さえも決してそのように思わないのも同じこと。性欲や愛情は、美しくないものも美しく、汚いものも清く見えてしまう。まさに「清濁併せ持つ」のも異性関係である。そういえば、太川と藤吉夫婦はしっくりいってるのだろうか、キャパを繕ったのが見え見えの太川であった。

「誰が見ても不倫でしょうが、自分は妻を信じる」は本当ではなかろう。こんな言葉を吐かねばならないほどに失いたくない妻だったということなのに、おそらくそれを承知の上での男漁りだったと思っている。太川の本性は、藤吉に看破されていたことになる。もし、彼女は自身の見込んだ太川を前提に、あのような殊勝な態度を見せたに過ぎない。これが女の狡さである。

ところが、そうではなくて、まったくの見込み違いの太川であったなら、男として道理を通す、骨のある男という見定めがなかったなら、藤吉は逆ギレしていたのではないか。「人を裏切ったお前に用はない。荷物まとめて出ていけ!」の姿勢を、泣けど喚けど崩さぬ男だったら…。おそらく藤吉は、「冗談じゃないわよ、人がこれほど詫びているのに」となるのでは?

それが自分の見る女の本性である。自分の意思を通すためには、どんな言葉もどんな芝居も厭わぬが、いざそれが通じないと分かるや否、それこそ360°態度を変える。謝罪に見せかけた演技であって、本質的な謝罪というのは、足蹴りにされようがしばかれようが、着ぐるみ剥がれて外に出されようが逆ギレはしない。それだけ自身の罪を責めているからである。

したがって、本当に心から詫びているかを見るためには、冷たい言葉を吐いてみるのが良い。それが相手の本性をみる手段である。資産家の老婆が、乞食の様相で町を徘徊し、石を投げられ罵倒されながらも、優しく接してくれる心ある人間を見つけるように、本質はまったく同じことだ。藤吉がマスコミの前で、「主人なしでは生きていけない」といっていた。

そういうことを本心でいう女が、夫を裏切るだろうか?そこが道理に反している。かつて自分も謝罪を許さなかったことで、逆ギレする女を何人も見てきたが、それとは異質の光る女も見た。そこに基準を合わせると他の一切は虚飾の女である。過ちは赦すが、嘘は許せない。追い詰められて逆ギレする人間には、良心はないものと考えている。逆ギレとは憎悪である。

良心のある人を探したいものだ。憎悪を隠して接する人間は、別れる時に千年分の言葉を用意する。「俺はこういう女と長きに過ごしていたのか」と、罵詈雑言を浴びせられた男の悲哀も見たが、そんな過去の一切までも否定して、何のための人生であったか。人生とは過去の集積である。それ以外のなにものもない。それを否定するような人生とは、自身の存在さえの否定であろう。

これほど虚しいことはない。邪悪な心を持った人、良心の心を持たぬ人。どちらも必ずいる。前者を避け、後者を得るためにどうするかである。離別の際に、自分の選んだ相手に文句や不満を言うのは、それこそ自己を否定することになる。選んだ相手を見誤ったと正当な主張のようだが、見誤った自分の責任ではないのか?人は何でも楽して人の責任にする。

「男を振り回す女などいない。いるのは、振り回される男だけだ。」

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