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虐待の罪・過保護の罪

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ネグレクト(幼児虐待)はいじめと同じで、自分がよくないことをやっているという意識がないところが問題だ。自身の行為を客観的・理性的に顧みず、感情優先でやりたい放題すると人間は何でもできてしまう。殺人もその部類だ。同様に子どもへの過保護もよかれと思う点では同罪だが、過保護は虐待のようにトラウマにはならない部分、将来的な悪害を残してしまう。

他人の気持ちを考えない人は、相手から指摘を受けるとイラつくだけならいいが、逆ギレして攻撃に回ることが多い。親から甘やかされて過保護に育つと、我慢ができないうえに無反省になるのは無理からぬこと。なぜなら、小さい頃から何かあるたびに母親が、「あの人が悪い」などと、いつも子どもの肩をもったりするから、反省しない人間になるのは当然である。

過保護で甘えて育った人間は必然的に自分のことや自分の気持ちしか考えない。忍耐力もないうえに自己中心的だからすキレやすくなるのだろう。また、自分がある行動をとるのが周りの人間を傷つけるかなど、爪のアカほども考えない。過保護に育たなかった人間は、特権階級意識を植え付けられなかったので、周囲のことがよく見えるから自然と他人の気持ちを考える。

自分が何かをしようとするとき、他人が障害になることもあるが、それを推して自分の目的を達する場合、そうした他人の迷惑の度合いを考えることになり、行動を中止をすることもある。したがって、行為をするかしないかの決断は、他人を無視することの理由に納得がいった場合に限られる。ところが過保護に育った人間は、何かをやる時においても周囲のお膳立てがある。

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そのことを甘やかしや過保護という。したがって他人の気持ちを考え、悩む必要がなく、その人には他人の気持ちを考えるということが必要でなくなってしまう。成長期にこの差は大きいものとなる。確かに、他人の気持ちを考えないで済むのは楽であろうが、そうした葛藤はない方がいいとはない。社会では親や身内のように、お膳立てをしてくれることはないからだ。

結局、親は子どもが社会で真っ当に生きられるように育てなければならないのに、子どもに苦悩をさせたり、要らぬ心配をさせぬように育てることが間違っているということだ。家庭の中だけの子育てをするとこういうことになる。これが近視眼といわれる母親の目線である。男はどちらかといえば、今より将来を睨んだ教育やしつけを考えるが、それを父親の社会の目という。

育つ過程で他人の気持ちを考えなくてもいいように育つと、成長しても他人の気持ちを考えなくても生きて行かれると思うのだろう。考える事すら面倒と思うようになるが、この「面倒」というのがよくない。なぜなら、大事なことを「面倒」とするなら、大事なことがおろそかになるのは当然だ。自分の気持ちだけ考えて生きて行かれると思う人は、必ず他人と摩擦を生む。

「なぜそうなるのか?」の原因すらも分からない人は、相当の重症である。誰が好んで自分の気持ちを平気で踏みにじるような相手と付き合いたいものか。そういう非難をうけるが、それをまた攻撃と理解するなら、重症というより障害である。したがって、彼女が鬱などの精神疾患になったのも、早い時期から自と他の問題や葛藤をスルーしてきたからではないか。

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そういう想像は自ずと湧いてくる。彼女が二十歳の時に出会い、半年ばかりの期間に会った回数は数十回程度で、長期間寝食をともにする関係でもなかった。二十歳は成人年齢であるが、形の上での成人であって、甘やかされて二十歳まで育った人間に、他人の気持ちを考えろなどと声が枯れるほど行っても無駄であろう。当時はそういうことすらなかったようだった。

自分は彼女の人間的な質を見たとはとても思えない。何でもカンでも昔は懐かしく、彼女以外にもノスタルジーを感じる人間は沢山いる。三つ子の魂という基本習性が後年に影響を与えやすいと昔の人は考えていた。だから、甘やかされて育った人間には、口で言おうが、殴ろうが、蹴とばそうが、そのようなことをしたところで無駄であろう。唯一の救いは自己教育力である。

自己教育による自己変革への努力である。記事にも書いたが彼女と45年ぶりに出会って、3日後には離別を決めた自分である。それは自分なりの看過できない価値観であったからで、許せないものを無理して許そうとしない自分の自己への厳しさでもあった。親でも我が子でも友人であれ、恩師であれ、昔の恋人であれ、許せないものは等しく許せないし、例外はない。

今に思えばあの判断は、彼女の人間性を洞察するものであったと、我ながらに人の見方の狂いの無さを実感した。自分には何ら罪のないことを、彼女と娘の共依存という事情から、独断的な罪を着せられたことには、相当の違和感を抱いた。絶対に許せないという違和感・嫌悪感が速攻で離別を決心した。今回も同じことに遭遇した。自分は何ら罪なきことを責める彼女である。

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「一度あることは二度ある」とは言わぬが、「二度あることは三度ある」は確信に満つる言葉である。今回の離別で彼女とは永遠に話すことはない。最初のことも自分には相当の事由であるが、二度目は彼女の人となりを確実に補足したものだから、それはそれでよかったと思う。今回新たにメールが届いたが、精神疾患があるということで、そう理解した。

返信をしないのは、無視というよりも最善の選択である。言葉は悪いかもだか、いい加減頭がイカレテいるとも感じられ、だから返さない。どのような記述であろうとも彼女のような、自分しか見えない過保護人間と関わることは二度とない。昔の人は、「バカは死ななきゃなおらない」といったが、バカのところに、「甘やかされた過保護人間」をつけ足せるのではないか。

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幼少時期に身につけなければならない能力を身につけられなかったのだろうし、身につけさせなかった親の責任は大きい。能力とは何かを始める際に、それなりの覚悟を決めて事にとりかかったり、他人の気持ちを考えて相手を幸せ気分に誘う奉仕の心。人間にはそれぞれの年齢時期にそれぞれ学ぶものがある。それらは、それ以前に教えても以後に教えても無駄。

そうはいっても、時期を逃した人に足りないものを身につける自己努力は、いつなんどきであってもすべきだし、やらないよりは勝る。今回久々にであるが、甘やかされて育った人間行動には、衝動的というのが加えられた。後先を考えないという顕著な行動である。厳密には、「考えない」というより、彼女にとって時間とは「現在」しないのだと、そういう風に感じられた。

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後先のことを考えないのではなく、こういう人に後先はないのではないか?平気で嘘をつく人も同じように後先を考えないからその場バッタリの嘘をつく。こういう人が重症になった場合、同じように、「後先のない」人間になるのだろう。嘘は取り返しがつかないものゆえに、慎重に使うものだが、見通しもないままにでまかせの嘘をつく人は、信頼のおけない人となる。

後先を大事にする人間は、所詮は後先など考えもしない人間と交流は望むべくもない。現在というのは、すぐに過去になり、あるいは現在の数分前は未来でもある。「現実主義者」という仰々しいネーミング見るに、そのように生きる実感を抱くのだろう。がしかし、厳密にいえば今という時間はなく、人はみな過去を生き、未来を生きるのではないか。

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