昨年12月に大阪箕面市内の集合住宅で起こった筒井歩夢(あゆむ)ちゃん(4)虐待死事件で、虐待を行った母親の麻衣容疑者(26)と、交際相手の松本匠吾容疑者(24)、知人の大倉敏弥容疑者(20)ら3人は、歩夢ちゃんが、「食事をこぼしたことがきっかけで暴行が始まった」と供述していることが、捜査関係者への取材でわかった。そんなことで大人3人が幼女に暴行を加えたという。
起訴状によると、3人は昨年12月24日夕~25日未明、集合住宅で歩夢ちゃんの腹に暴行を加えて死亡させたとされる。松本と大倉は昨年11月、麻衣容疑者が住むこの集合住宅に転居してきた以降、「日頃から暴行していた」、「しつけのつもりだった」と供述している。司法解剖の結果、死因は外傷性の腹内出血で、歩夢ちゃんの全身には約50カ所のあざがあったという。
捜査関係者によると3人は24日、歩夢ちゃんと弟(2)を連れて外出。スーパーでオードブルを購入し、歩夢ちゃんの祖父からもらったクリスマスケーキを持って帰宅した。同日夕、5人で食卓を囲んでいた際、「食事をこぼした」として暴行が始まり、何度か間を置いて断続的に暴行。3人は、「いったん寝て起きたら(歩夢ちゃんが)息をしていなかった」と話しているという。
25日午前2時10分頃、母親から110番通報があり、捜査員が大阪府箕面市粟生間谷西の「UR都市機構箕面粟生第3団地」に駆けつけると、長男の歩夢ちゃんが心肺停止の状態でベッドに横たわり、搬送先の病院で死亡が確認された。内縁の夫とされる松本容疑者や知人の大倉容疑者は、「しつけとして殴り、母親も一緒にやった」と供述しているが、母親は、「やってない」と否認する。
3人の詳細な供述は公判で明らかになるが、母親の否認については自己保身からの嘘なのか、それとも男2人が暴行している場面を傍観していただけなのかは今のところ不明。男のいう「(母親も)一緒にやった」がどの程度の行為なのか、それとも手出しをしていないのに嘘をついているのかなど、詳細な調べが必要である。止めると母親が暴行される恐怖はあったかも知れない。
大阪地検は15日、いずれも殺人容疑で逮捕されていた麻衣容疑者と交際相手の松本匠吾容疑者、知人の大倉敏弥容疑者を傷害致死罪に切り替えて起訴したのは、母親も加担していたと判断したようだ。が、殺人罪から傷害致死に切り替えたのは、殺意の立証は困難と判断したとみられる。報道では母親と内縁の夫、そして夫の知人と歩夢ちゃんと弟の5人暮らしとあった。
なぜに夫の知人までもが同居なのかは分からないが、居候という状況なのだろう。世の中、分からないことはあっても、行為者にとっては何でもないということもある。「食事をこぼした」ことで、4歳の幼児に心肺停止に至らせる8時間もの断続的暴行もまったく理解できないが、これすら行為者にとっては、「しつけ」ということで普通の行為だったのかも知れない。
「普通のことが普通でない」、「異常なことを普通と解する」。それを価値基準というなら、殺人行為者にとっての殺人も普通のことなのだ。「正常」と「異常」という言葉はあるが、言葉はあっても判断基準の線引きは個々によって異なる。「正常」とは何を基準に正常であり、「異常」は何を基準に異常とされるのか。正常と異常の間には何がながれているのだろう。
こういう例もある。東京・埼玉連続幼女殺人事件の宮崎勤は、その異常行動から精神分裂病の可能性も指摘されたが、彼は神戸連続幼児殺傷事件の少年Aのように、自分の犯行を鮮明に記憶していない。「ネズミ人間がでてきて」、「わあーっとなり」、気がついたら女の子が倒れていて、それは、「肉物体」になっていたという。彼は、解離性同一性障害と診断された。
異常な犯罪には解離性障害者によるもがある。「そのとき自分は別の人格になっていました。やったのはそいつで、自分は知りません」と主張するが、これは本人のいう通りに理解すべきことなのか。刑法39条には、心神喪失者及び心神耗弱者の責任能力に関する規定があり、責任無能力者についての行為に犯罪が成立しないことを明らかにし、また刑を軽減する規定がある。
いかなる異常な行為も犯罪も、精神が異常な者にとっては正常な行為である以上、罪の規定はできない。だから、精神鑑定が必要になる。少年Aは、解離性障害を起こしているとされなかったが、それに近い傾きはあるという精神鑑定人の判断だった。つまり、少年Aは、正常と異常の微妙な境界状態のところにいる、いわゆるサイコパスといっていいのかも知れない。
彼の自分の犯行を語っていくところなどは冷血そのもの、人間性のかけらもないように見えるが、後に彼が元少年Aとして出版した『絶歌』からも伺える。彼の自己陶酔感や自己顕示欲から一部の専門家の間でも、「彼は更生していない」と折り紙をつけられた。恨みや怒りではなく、ただ快楽のために、「殺すこと」を目的とした弱者抹殺の殺人行為に人間性はない。
生きるためにハンターとして他の生き物を捕食する動物には、憐憫の情など皆無であるが、目的に於いては純粋である。生きるために「食らうこと」に必死で、そんな情が入り込む余地は存在しない。映画『エイリアン』の中で、アッシュが言う。「あれは素晴らしい純粋さを持っている。生存のため、良心や後悔などに影響されることのない完全生物だ」。
人間は不純な生き物だという。だから目的を持ち、目的を叶えようと努力できる。目的を叶える事だけが純粋というのはどこか違うだろう。目的を叶えるという理想の背後にはどこかしこ人間としての物欲、名誉欲、自己実現欲、他者から認められたい欲望などがある。それを不純というのは欺瞞であろう。「動機が不純」である方が、目的は実現しやすいのかも知れない。
純粋とは矛盾であり、社会を動かす数多の人間は、自分が人間であることを止めた人間なのかも知れない。弱い人間ばかり100人集まって、強い人間一人と綱引きをすれば、100人の弱い人間が勝つ。しかし、一対一では確実に負ける。それが社会というものだ。そうしたことからしても、自分が人間であるということの証明は、二重性に引き裂かれているということである。
矛盾した二重性に引き裂かれた悲痛こそ生きている証であり、その中にしか人間らしい喜びはないのかも。人間は悲痛を通じてしか人間にいたれない。生き甲斐に通じる路も悲劇なら、人生の意味に通じる路も悲痛である。ならば安定と幸福を求めるものは、人生の意味に背を向けていることを自覚する必要がある。幸福に別れを告げる人生はむしろ人を生きやすくする。