何事においても文句ばかりいう人間がいる。男にも女にもいるが、共通する特質は行動しない事。文句ばかりいい続ける人には、「文句があるなら、さっさと自分でなんとかすればいいのに」と思わせる要素が多分にあり、行動しないから文句をいい続けられるし、相手に文句ばかりいう人間が、人と上手くやっていけるハズがない。独身フェミニストがまさに好例といえる。
自己肯定感というのは大事である。自己否定するより前向きな生き方ができるからだが、自己肯定感を自己正当化と勘違いする人もいたりする。言葉だけが都合よく勝手に使われるのは困りもので、自身の過ちを正当化し、他人に文句を言うのを自己肯定感と言わない。過ちを認識できないで文句ばかりいう人は、自己否定からやり直した方がいいだろう。
自己肯定感とは自己否定から生まれるものであって、何でもカンでも自己を肯定することと間違って受け取る人がいる。「自分はなぜこうも至らない人間なのか!」といった自己否定に徹底的に向き合うからこそ、自己肯定感が生まれてくる。自分を責めて責めて責め倒したあげくに自己肯定感が生まれれば、成長の証しとしての自己肯定感を得たことになる。
子どもを持てば人は親になる。人間の子どもはペットの様に飼育するだけでなく、人為的な教育を強めれば心が歪む。子どもの成長・発育を考える場合、子どもの立場に立って考える態度と、大人の立場で考える態度がある。昭和30年以降の高度成長期に育児に失敗するケースの多くは、大人の視点や大人の都合など、大人の立場に立った子育ての風潮だった。
保育所、学校、親、一部の評論家らが、大人の立場に立った判断で子どもの教育をあれこれ考え行った。人間と動物の違いはあるが、どちらが良いか、どちらが間違っているかの判断は人間も動物もない。動物の子育ての原則は、大人の立場の考えを子どもに押し付けず、子どもの実情をキャッチして、それに合わせて親が育児態度を決めることにある。
犬や猿やライオンなどすべてが育児本能という直観力で、子どもに合わせた育児態度を行っている。そうした環境から子どもは自分と他人の関係について学び、「自他の関係」から互いの幸せについて考え模索し成長する。子どもは親に育てられて幸せ、親もまた子どもを育てて幸せと、「自と他が互いに幸せ」という親子関係の下で子どもは健全に育つ。
「お前なんか産まなきゃよかった」、「こんな親のところに生れてこなければよかった」などの言葉は、双方の心を引き裂く絶対禁句であるが、人間は愚かであるからついこのような言葉を吐いてしまう。こういう場合には言葉を持たぬ動物の方に理知が感じられる。前途のような親子関係が愛を育んでいくが、愛に欠けて育てば子どもは問題児の可能性が高い。
母親の愛情に渇望があった自分は、父の無言の愛をしかと感じていた。生きていれば今日で102歳となる。満たされなかった母親の愛情を父が供与してくれ、それで幸せを感じていた。母親の愛の無さを負の要素と捉え、考えることができるなら、それで思考の幅も広がるだろう。傲慢な母は子どもを盲従させ、己が意のままに支配してしまおうとの魂胆に見えた。
そうであるなら、そうならないようするのが子どもの防御策である。誰が好んで他人のロボットになりたいものか。子の親への反抗は、理に適ったものだが、それが分からぬ親もバカである。なぜ反抗するのかの原因を自身に照らして考え、改めるなど修正しない親は、存在すること自体に害があり、何の益にもならない。それは親としての悲劇でもある。
文明は人間の生活を便利にし、合理的にしたが、その反面、文明は人間を病める動物にした。人間の子育てにおける学問が完成されていなかった時代、欧米先進国においては200年~300年前から、「先進国型育児崩壊」が始まっていた。人間形成崩壊、家庭崩壊、社会崩壊という現象が起こっているにも関わらず、無策のまま放置し手をこまねいていた。
こういう時代が長らく続き、欧米ではもはや人間の原点に戻った正しい育児を、学問的に考察するなど不可能になっていた。そうしたなか、心ある篤志家や児童教育に危機感を抱く人たちによって、子どもの教育に真剣に向き合おうと手立てがなされた。『ロビンソン・クーソー』のダニエル・デフォー、『トム・ソーヤの冒険』のマーク・トウェインらである。
『最後の一葉』で有名なオー:ヘンリーの短編は、後年日本の教科書にも載った。『クマのプーさん』のA.A.ミルンや、『不思議の国のアリス』のルイス・キャロル、『小公女』のフランシス・H・バーネット、グリムやイソップらの童話作家、さらには、『ミッキー・マウス』のウォルト・ディズニーらも、文学やアニメを通じて子どもの成長や教育に大きな影響を与えた。
先進国にあっては、「人間不在型社会」といわれた負の要素を改めるべく寄与した人たちの功績は大きい。多くの親が我が子をダメにしてしまう、「悪魔の愛情」を隠し持っているなかで、それを啓発し、変革すべき多くの児童文学者には頭が下がる思いだ。彼らに共通する子どもの目線が、逆に大人にも共感を与えるようになる。昨今において一向になくならない「いじめ」の問題。
これも先進国型社会が未熟な大人をつくり、そうした未熟な親によって育った子どもが引き起こしている。自分と他人の関係は、いかなる場合においても無関係ではあり得ない。45年前の出会いの記事に書いた彼女が、「自分に関係ない話をどうしてするのだろう」と思ったというのを、自分は異常に感じられたが、彼女はなぜかそういう風に育ったのだろう。
さまざまな理由による親の子どもに対する愛情欠乏は、「他を愛する感性」、「お互いにいいものだ」、「他人にしてあげる喜び」といった感情が欠落し、自と他の関係を阻害する。もっとも重要なのが0歳~7か月の乳児期におけるマザリングの欠如、つまり母親の干渉が過度に少ない育てられ方をした子どもは、「自と他の関係が希薄になる」といわれている。
「精神的孤児」状態に陥った子どもは、母親に関心を示さず、母親があやしても無表情であり、言葉の発育が遅く、ひいては親が呼んでも振り返らず、友達にも関心を示さず、自分の関心だけで動く子どもになるといわれる。友達へのいじめが始まり、年齢が進むにしたがって問題行動は増し、正常なコミュニケーション能力が育まれないことで、他人から疎ましく思われる。
こうした母親の愛が子どもにとっては、「自」と「他」が愛で結ばれる出発点になる。愛情といっても間違った愛情、過度の愛情は、それはまた別の問題を生むが、そうした度合いなどを正しく認識するためには、何より親が人間的に成熟するしかない。他の動物と異なり、本能機能の脆弱な人間は、体験を取り入れた自己形成や、脳を適応行動させる学習が不可欠となる。
それらを習得、是正するための児童文学であり、ディケンズやユゴー、ドストエフスキーやトルストイなどは、児童でも読める作品だ。これらから共感したり啓示を受けて人は成熟する。したがって、成熟とは様々な引出しを持つことであろう。そういう引き出しの無い人は、単に自分が思ったことが正しいと自己正当化するが、これは比較のための素養がないということになる。
子育ての能力とか充実というのは、やはり比較検討であろう。もちろん、体験の大小も重要となる。人間にとって何より重要なのは、人間の本能の成熟であり、適応行動の充実であり、そのあとに知性や技術的な知識が控えている。したがって幼児期にとっては知的であることはそれほど重要ではなく、それが本能の熟成にむしろマイナスになる事さえある。
そういう懸念のないままに、他の子どもに比べて卓越した能力や技能を評価し、数多の知識の詰め込みを強いるのは他より抜きんでて、一見よさそうにみえるが、心や人間形成に歪がでる。そうしたことからも、人間の親は、好ましい育児のできる親に自らが成長し、さらには成熟する必要がある。親が成長すれば必ずや子どもも成長するのではないかと…。