仕事は、「迅速」、「丁寧」、「正確」が良いといわれるが、このようにされた側は誠実さを感じる。今日できる事は今日、今やれることは今、これを習慣づけておけば、何事も迅速・的確になされる。あとはぬかりなきよう丁寧であればよい。先送りの危険性は失念である。多事に追われて忘れるのは人間の常、それを防止するためにも「思い立ったが吉日」である。
「今できない事を明日やれるはずがない」をモットーにすれば、自然と仕事のできる人間になる。何かと先送り、先延ばしする人間に仕事のできる者はいないだろう。「疲れた」、「忙しい」、「面倒くさい」を禁句にする自分だが、こうした言い訳が人間をダメにすると思うからこそである。今できる事を即行動せねば落ち着かない自分は多分にせっかちともいう。
が、せっかちを長所と考えている。長所・短所というものは相対的であり、ならば前向きに考えるべきであろう。面倒くさがり屋の人間がいる。なぜにそうなのかは分からないが、自己啓発がなされないのだろう。「明日やる」、「いつかやる」、「そのうちにやる」という心境は到底理解できない自分だが、そういう人を批判するより、笑って済ませられる。
以前はそうではなかった。行動しない、動こうとしないうじうじした人間には腹をたてたりした。仕事を命じる立場にある時は、特にそこは厳しく指導した。言い含める言葉はいろいろあるが、ひたすら自分は、「迅速・丁寧・的確は誠実である」と、そのこと一点重視で理解させようとした。またその際に、「誠実」の対義語を、「だらける」として批判した。
「言葉」は人を裏切るが、結果はともかくとしても、「行動」は人を裏切らない。「言行不一致」とはそれを標榜する不誠実さをいっている。約束を守らないでいながら平気の平左という人間がいる。責任感の無さであるが、これほど不誠実を感じることはない信頼も信用もできない人間である。頼んだことはキッチリとやってくれる人間には信頼がおけるだろう。
「こういう人間とは付き合えない」の断トツが不誠実な人間である。不思議にそういう人間がいる。女に多いが男にもいる。ただただ、不思議というしか言いようがない。何を好んでいい加減な人間と付き合う理由があろう。約束を破る人間に共通するのは、「破りたくて破っているのではない」という言い草だ。言葉にしなくてもそういうニュアンスが読みとれる。
だからか、「また破ってしまった。ごめんなさい」などという。これを謝罪といえるのか?相手にすれば謝罪のつもりでも、こちらはバカにされたも同然であって、謝罪とはならい。こういう人間には怒りを超えて、「何でそうなるの?」である。どのように分析すれども、「いい加減な人間」というしか答えは見いだせない。約束に対する思い入れが違うのだろう。
「子どもと大人とどちらが約束を守るか?」の問いは愚問である。大人・子どもというより性格の問題だ。ただ言えるのは、子どもは本当に忘れている場合が多い。それを純粋といってみる。大人は忘れていないのに忘れたフリをする。これを邪悪といってみる。貸した金を返さない。請求すれば、「ごめん、忘れてた」。忘れていたは返さない理由になるのだろうか?
「忘れる」=「不誠実」であるから自分は理由として認めない。子どもも大人も嘘はつくが、子どもの嘘は純粋である。要は、我が身を守るための嘘であることが多い。「子どもが嘘ばかりつくので困ってる」という母親がいた。「何をどう困ってるんです?」と聞いたら返答に困っていたが、何を困るのだろうか?子どもの嘘は、実は本音の裏返しであることが多い。
「叱られたくない」、「親が怖い」、だから嘘をついて逃れようとする。それを叱りつけても問題は解決しない。むしろ、子どもの心のシグナルと捉えた方がいい。に対して、大人の嘘は不純である。純粋な嘘をつく大人もいるが、邪悪な人間は嘘をついて相手を罪に陥れようとする。子どもにこうした嘘はないが、もしそのような子どもがいるなら問題であろう。
なぜ、嘘をついてまで相手に罪を着せるのか?自分のためにつく嘘は、自分を甘やかせているという解釈もできるが、嘘で他人を罪を着せる大人は要注意人物とみなした方がよい。PCのアド設定を頼んだ彼女が、「入力したけど、どうかなぁ?」と返され、即座に実行されていないと感じたが、懸念通りだった。なぜこのような言い方をしたのかを推理してみた。
この時彼女はドコモショップに行ったといってない。以下は彼女の言動に対するプロファイルである。彼女は自分で設定はせず、ドコモにも行っていない。できてない理由を彼女にこう指摘した。誰もができてあなたができない理由が不思議」。すると彼女は、「ドコモでやってもらった」と述べた。ドコモでやったということで、真摯な対応をしたと思わせたかった。
ドコモでしてもらったのにできなかったのだから仕方ないでしょう。自分は悪くないといいたいのだ。これが邪悪な人間の世間や相手を愚弄した浅知恵である。「ドコモでできない」は一般的に通用しない。「ドコモでやれば間違いなくできる」という思考が彼女に抜け落ちている。権威を利用してしてもいない行為を、したかのようについた嘘を見透かされてしまった。
彼女に、「ドコモでできないハズがない」という真っ当な考えがあれば、こういう嘘はつけないはずだが、ドコモを都合よく利用して墓穴を掘ってしまったのだ。「ドコモでできないならAUに行ったら?」と自分は皮肉った。すると彼女は、二人の懸案の問題にさっさと蓋をし、「早くどこかで会って色々話そう」と話題をすり替える。これが男には理解不能な女性脳である。
論理的に追い詰められ、逃げ場がなくなると、何事もなかったかのように180度方向転換をするのはしばしばみられる女性の特徴だが、男には絶対にできない不思議な感情である。おそらくこれは、神が与えし賜れた女性の本能的な論理からの逃避行動であろう。すべてを自分一色に染めて相手不在にできるという能力は、男からすれば芸術の域であるが、これが男を憤慨させる。
自分は女性を多角的に捉えるので、こんなのは子どもと同様の稚拙な逃避と理解するが、追い詰められた女はヒステリーになるか、その場から逃げ出すか、もしくは彼女のように自分の世界一色に染めて状況を遮断するかのいずれかだ。まあ、ドコモの嘘など所詮はコドモの嘘。彼女もはや65歳であり、ヒステリーの要因となる女性ホルモンの分泌はもはやない。
色々な年齢や人生体験的境遇を経た人間と話す面白さはある。若いころのような無知からくる憤慨はもう自分にはなく、あらゆる観点で人を捉えることができるようになった。腹がたたないことがキャパシティーなのだろう。それを思うとき、親子関係においても、親と子は40歳~50歳くらいの年齢差の方がよい子育てができるのでは?あまりに親が子どもすぎる懸念を抱く。