先ずは結果をいうなら、前回と同様3日で終焉した。「3日坊主」とは言ったものだが、前回も3日、今回も3日…と、なんとも不思議な結果である。常々破局というのは、「どちらか一方だけの責任ではない」という持論だが、これはあくまで破局。交流期間3日を破局とは言わないだろうし、この際正直にいえば、「とんでもない女」ということで一方的に逃げ出した。
それについての理由を書くのは悪口と捉えかねられないが、黙っているよりも人間考察において公益性はあろう。やたらめったら他人の悪口三昧で気分を和らげるという羞恥な情緒は自分にはない。いろいろと書いた母親についても悪口と受け取る人もいようが、批判とただの悪口は似て非なり。悪口に考察はないが批判はそれを伴う。よって、悪口と批判の違いはそこにある。
批判とは単に否定的になるのではなく、自身の論理構成や内容について内省することを意味するなら、人間が生きる上で批判は欠かせない。ともすれば批判は情緒的になりやすいので、しっかりとした土台の上に、自分を活かし、反映させるものでなければならない。自分にとっての他者批判は自身を向上させるものであったし、批判がなければ自己格闘はできなかったろう。
ある学者は批判的思考(クリティカル・シンキング)について、「批判とはあら探しではなく、理想的には思考過程を改善するための情報の提供をも意味し、したがって批判的思考とは、複雑な判断、分析、統合、また省察的な思考や自己モニタリングを含み、文脈に敏感な高次元の思考技能」としている。そこまで高次な批判がなされるか否かは批判者の思考レベルにもよろう。
子の親批判、嫁の姑批判、夫(妻)の妻(夫)批判、生徒の教師批判は冷静になされる方がいい。正月に高1の孫が部活を辞めたという。あれほど好きだったバスケで、特待生で私立高に進学した彼が、指導教諭を批判して退部した。母親は勝手に辞めたと怒るが、自分はむしろ評価した。理由は教諭の勝手な誤解(思い込み)で、2か月の部活停止を命じられたと同時に退部届を出す。
あれほど好きなバスケを辞めるわけだし、よほど腹に据えかねた自由があったのだろう。母親は目先のことしかかんがえていないが、相手が誰であろうが理不尽な行為に蓋をするような人間でないところが好感を持てた。この体験で失うものはあったとしても、彼の将来の人格形成にプラスになろう。男は筋を通してこそ男であって、私利優先で他人に媚びる人間が多すぎる。
授業料一切免除の特待生なら退校になるが、部活費用免除の特待生であったことで学校に残れた。「後悔していないのか?」と聞くと、「していない」と返す。「それならいいが、多少の後悔はあっても、理に合わないことには屈するな。女(母親)には理解できなくとも、男のことは男なら分かる」といっておく。父親が黙っているのも理解はし、妻と事を荒立てないためだろう。
とかく目先のことばかりガタガタと女はうるさい。今回のことは彼の将来の試金石になるだろう。そういうものを大事にして子どもは導くべきである。退部以後母親と口を効いていないというが、彼自身が体験したことだ、何を怖れることがあろう。自分の経験でいえば、支配意識の強い親に反発するのは自我確立からの反動である。子どもの成長・発達には自然のルールがある。
それに強く人為を反映させると、自然は猛威を振るうのではないか。思春期時期の子どもは、大人の仲間入りをする時期であるから、親も教師も子どもとして見下し、大人への自我欲求を認めなければ子どもが反発するのは当然だ。娘(母親)を見て思うのは、自分の描いた理想図と食い違ったことに対する許容量のなさ。「何のためにこの学校に入ったのかが台無し」などという。
「バスケをするために入ったのだけれども、練習のキツさ、辛さに根をあげたわけではないし、彼にとっては絶対に承服できない教師に振る舞いだったと思う。彼にとっての大事なものを差し出しても筋を通したのは男として骨がある」。この言葉を母親が理解できると思わない。理解するというのは、理解できない事を認めることで、理解できないから怒るのは間違っている。
人は自分とは違うわけだから共感できることばかりではない。人は人を理解できぬとぶしつけな態度をとるが、理解できぬことに対する配慮が微塵もない。他人を理解することは難しいとの前提で、他人の存在を認めることがキャパシティであるが、寝食を共にする親子や夫婦というのは、そこが試練ともいえる。話を戻すなら他人となら付き合いを止めるのが正解だ。
自分にとって必要であるべき相手を間違えてはいけない。必要な相手とは、自分の気持ちに自然でいられる人のこと。それが真の愛情・友情といったのは理に適っている。45年前の恋人だからといっても、交流するのは今である。懐かしさが人間関係に上手く機能するというものでもなかろう。昔は上手くいったとしても、45年の歳月は互いを大いに変えているはずだ。
20歳そこそこの人間が、正しく相手を捉えていることもない。無理をせず、我慢もせず、心を開放しても自然な結びつきが得られるのは良い関係であろう。そもそも、「懐かしさ」とは何であるか?「基本的信頼感」というのがキーワードになる。基本的信頼感は人生の最初の時期に人間が獲得する、人間関係を形成する上で最も大切な、基本的な感情といわれている。
さらに、「基本的信頼感」とは、人がこの世に対して抱く信頼感の事で、「懐かしい」と言う感情も、「癒される」と言う感情も、人間が遠き赤ん坊の頃に近い状態の時に体験した、「基本的信頼感」が揺り動かされて生じる。人が何かを懐かしいと思うとき、人は、自分がこの世に受け入れられて愛されてきた感情を想起し、人や社会に対して信頼感や愛情を再確認する。
したがって、懐かしいと言う感情の中には、不信感はない。相手に対しても自らに対しても肯定的で良い感情のみが詰まっている。極論的にいうなら、「懐かしいという感情は、無償の愛を感じている」ということであり、でそのことがそのまま安心に繋がり、それによって人は癒される。ところが、そうした懐かしい相手と現実を行っていこうとするときに、当然ながら問題は派生する。
「懐かしさ」はまた、自身の過去を内省するということも多く含まれ、これは個人的なことながらも純粋な内面的な心の作業であり、ある種、「禅的」な行為ともいえる。したがって、「懐かしさ」とは、「内省」の情であり、あの頃の自分に戻りたい、戻って立ち止まってみたい、できることならやり直してみたい、などの思いに駆られるのは、そうした事由によるのではないか。