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Channel: 死ぬまで生きよう!
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45年を経た再会。その後… ③

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文字や言葉は意味を伝えるだけではなく、気持ちを伝える側面がある。手紙やメールというのは文章なのか言葉なのかを問う前に、言うべきことが適切に書かれ(表現され)ていればよいわけで、語りかける記法か、整然と文字を並べているかの違いである。書かれたものから、書かれていないものを読み取るのは、感受性であり、能力でもある。正しく読むには冷静さが必要だ。

人が何かを言ったり書いたりする際は、嫌な体験や腹の立つようなことだったりの場合、愚痴や気晴らしも含めた記述になることが多い。いつの場合も人はその時の気持ちが文や言葉になるが、書き手の意図そのままが読み手に伝わるとは限らない。書き手の技量、読み手の力量にも関連するからだ。喜怒哀楽を伝えてみても、相手によってはまるで伝わらぬことも経験した。

中学高校のころだったか、母親から受けた凄惨な体験を友人に話してはみたものの、共感は得られなかった思い出がある。友人たちは一様に、「親は大切にしなきゃ」、「親の悪口言わない方がいいよ」などの言葉を返すばかりで、誰も自分を理解してくれなかったのは、そういう親を理解できなかったのだ。親嫌いの友人が一人が、「親なんか結局自分勝手なものよ」といった。

親に不満のない友人が多かったのと、「親は大切に」といった儒教思想の名残りがあったのだろう。自分でさえ、「親孝行はすべきもの」というのは正しいと思っていたが、そういう気持ちにならない現状に苦慮していた。思春期以降の自我形成期から親憎しが増幅していったのは、自己を確立する青春期に、その邪魔をするばかりか、親に従属するよう振る舞われた。

さて、45年前の恋人に再会という尋常ならざる体験をしたが、それが3日で終わってしまったことも思いもよらぬ体験である。終わったのは、「終わらせたから」であり、終わらせない選択もあった。それを終わらせたのが自分で、相手にとっては「なぜ?」という部分もあるのだろうが、ある事を契機に180度展開したわけだから、想像力を発揮すれば、「なぜ?」の理由は見えてくる。

受け取ったメールはかなりの長文であったが、内容を要約すると。①急に終わったことへの不満、②元夫への不満と離婚理由、③自身の情緒並びに精神疾患、④同僚への相談で得たアドバイス、⑤日頃の余暇の過ごし方、⑥進呈したお菓子の御礼である。それらを自分がどう判断したか。①は恨み節、②は不幸な境遇への同情心、③感情の起伏への理解であろう。

⑤は熱烈な宝塚ファンで、しばしば劇場にいくという。⑥は同僚からの指摘があった。自分が別離を決意したことには触れてはなかったが、「『その人は何も悪いことをしていないでしょう』と同僚に言われた」とあった。娘が勝手に宅配便を開けて手紙を開封したというのは伝えてないように思えた。おそらくその事自体は彼女にとって問題点だと気づいていない。

これが一卵性母娘にとって自己肯定であり、娘批判になどとても至らない図式が見える。正しく分析した上で正しい謝罪はなく、ただ同僚に、「戴き物のお礼はいうべきといわれた」とあり、これは彼女自身の本意とは感じられなかった。「人から言われたのでしたまで」と、こういういう言い方は、自尊心の強い人間が相手に遜るのを「良し」としない場合に用いる。

「人に言われたから行為した」と、こういう言い方はそれが事実であってもいうべきではない。大事なことは、人に言われて自身が気づいたかどうかである。そうした判断からこのメールは、謝罪でもなく、許しを乞うでもなく、誠実さも何もない、自己肯定感に満ち満ちたものである。こういう言葉を送る側の心の内をある程度正確に判断できる素養は自分にある。

ここというときに、自尊心をかなぐり捨て、素直に、正直に相手にひれ伏せられるかというところが、人間性に重要なポイントであり、それからすると、こういう自己主張に彩られた文面からは誠実さの欠片も感じられない。「文は人なり」というが、文から人間性を理解できない者には無意味なことば。人に誠実に生きてきた者のみが、他人の文や言葉の誠意を理解できる。

誠実の意味にはいろいろあるが、人に心を開放して本当に本当の結びつきを求めているか、自らの気持ちに自然でいられるか、これが真の友情・愛情の要件であろう。「自然な感情」に身をまかされると、人の心は間違いなく解放される。人の前で防衛的にならずとも、傷つけられることはない。人を信じる能力というのがいかに大事であるかが試されることになる。

なぜなら、自分に人を信じる能力がなくて、相手の愛を信じることはできない。相手は自分の欠点も含めて愛してくれるものなのに、それを理解できないから、自分を作ったり、弱点・欠点を隠そう、良く見せようと背伸びをしたりして、虚飾の自分を演じてしまう。人と本当に結び付きが得られるのは、「心の解放」よりないだろう。が、それは一朝一夕にできないものでもある。

残念ながら、そういう人間とは上手くいかないと自分は思って避けるようにする。権威志向で自尊心の強い人とは、自然で良好な関係が持てないのが自分の経験則である。今、この場で元夫の不満を並べ立てる場合なのか?この歳、同情心を寄せてくれることならなんでもいってみると感じた。真の謝罪に長文は無意味である。ともすれば言い訳になるからだ。

自分は長文を書くが、こと謝罪においてはあらん限り短くする。「する」ではなく、「なる」といった方がいい。自分の自尊心を放り出し、一切の言い訳を弄すこともせず、ひたすら詫びる。それが謝罪と思っている。自分を相手に差し出すことである。命を差し出すのが武士の謝罪であるように、本当に大事なものを差し出すことが謝罪である。命までとはいかないが…

これら彼女の文面からは、①正確な自己分析の無い恨み節。②同僚に言われたからアクションを起こした。③同情心を煽ることを主眼としている。④自身の非を認めて再度交流を望みたいとの真摯な気持ちが感じられない。もはや頭から消した相手となっていた。知人に、「百年の恋が一日で覚めるような体験は、できたらしたくなかった」と、直後に書いている。

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