恋は人を詩人にするという。同時に恋は人を哲学者にする。哲学とは人間について考える学問だ。ゆえに恋人についてあれこれ思考を巡らすのも哲学である。つまるところ人を賢くし、人間としての情感を豊かにしてくれる。しかし、恋がいつも楽しいとは限らない。恋に苦悩がつきものなのは、人間が一筋縄ではいかないからだろう。人は人の思うようにはならない。
ゆえに恋も思い通りには進まない。しかし、「恋」というものは相手に強く引き付けられている思いが満たされず、苦しく、辛く思う気持ちをいうのだろう。ゆえに恋の神髄は悩むことである。それが恋であり、その思いを満たそうと努力するところに価値を見る。だからこそ人間が生きていく上において、恋は無上の楽しみに彩られる。たとえそれが悲恋に終わろうとも…
恋を難しくするものは、人間の心理の様々な変化であろう。感情と感情のぶつかり合いである恋に技法はあるのだろうか?そのような指南書の類は沢山出版されているが、恋は生きたものであり、そんなのを読んで恋がうまくいくはずない。一切は売らんがための本であり、たとえ同じようなケースがあっても、指南書にあるような手練手管は当事者違えば性格も違う。
当て嵌まるものだろうか?恋にテクニックがあるのかないのか、あれば効果があるのか、考えたこともないが、恋は自らの気持ちに素直でいればそれでよいというのが自分の考えだが、そんなものは具体的に披露するのは難しい。その時の状況や気持ちに素直でいれば素直に対処はできよう。なぜならある一人の女の価値というのは、自分ひとりにしか分からぬものである。
他人が何をいおうと自分のことだ。ブサイクといわれようが腹も立たない。自分が良いならそれでいい。そもそも他人に自分の価値が分かるハズがないのだから。どの女にしろ、すべての一般的な価値を持っているわけではない。美人や巨乳が女の絶対価値ではあるめ~。例えば巨乳の恋人を持った男が別の巨乳女に恋をしたが、恋人以上の巨乳を想像した結果である。
そうした心理変化はあくなき欲がもたらすものだ。誰と交わったところで格別の違いはない。あるとするなら気持ちの違いである。別の言葉で好奇心という。隣の芝生は青いということだ。それがいつの日か、隣の芝生は別に青くないと思えるようになったとき、情緒が安定するのだろう。女の尻ばかり追い回して得る者など何もない。それが、「隣の芝生は青くない」である。
もし、数十年前の恋人の情報(存在場所)を知ることになれば、アクションを起こす者はいるだろう。自分もアクションを起こした一人である。学童期や学生時代の友人と会って、何が楽しいかといえば当時の昔話である。それしか共有の話題はない。ゴルフのスコア自慢や病床歴を言い合ったところで、話が弾むことはない。やはり、あの頃の思い出話に花は咲くものだ。
誰もが、昔の恋人と当時の話をしてみたいのは、級友と昔話をするのと同じ気持ちである。もっとも、へんちくりんな別れをしているなら、抜け抜けと話しができるものだろうか?自分は彼女とへんちくりんな別れをしてはいない、だから恨まれることはないと思っていた。が、「なんであなたは私の前から消えたの?それも突然に…」。責めてはいないが似た感触だった。
♪ 懐かしい痛みだわ ずっと前に 忘れていた…松田聖子の『SWEET MEMORIES』の出だしの歌詞。そんなものかと。♪ でもあなたを見たとき 時間だけ逆戻りしたの…と彼女はいわないが、そんな風だったろう。だから思い出は、Sweet Memorieであるのがよい。しかし、45年を経た声の再会が、3日で終わろうとは夢にも思わなかった。見ていた夢が覚めたと自らに言い聞かせた。
終わらせない選択もあったし、それは可能だったが、終わらせたからには相応の理由があった。しかし、その理由さえ不問にすることはできる。終えない選択をあえて終わらせたのは他でもない自分の別れの美学である。別れを決めたら、思わせぶりな言葉などを吐くこともせず決然とする。まるで何事もなかったかのように、後ろ髪すら引かれぬ自分に成り代わる。
メールもアドレスも無用のものと即刻削除し消去する。「あったこと」を、「なかったこと」にするにはそうするのが良い。何かを形跡のようなものを残しておくのは、真の意味での、「なかったこと」にはならないだろう。そういうことができる人間はおそらく幸福であるからで、幸福な人間はまた、幸福を求めたりはしない。ばかりか、不幸であることにおいても無縁であろう。
幸福な人が幸福であることを望まないなら、不幸な人は幸福を望むのだろうか?巷に氾濫するさまざまな『幸福論』の対象者は、いうまでもなく不幸な人であろう。ならば、不幸な人は『幸福論』を手にすることで幸福になれるのか。以下はある『幸福論』の中から描き出したものだ。「人間の生活は不断の迷妄に過ぎない。人々は互いに欺き、互いにへつらう。
誰も我々の面前では、我々について、陰で言っているようなことは言わない。人間同士のあいだの結合は、かかる相互の欺瞞にもとづいているに過ぎない。陰で友人が言ってることを、もしもお互いが知ったならば、たとえ真心から感情を交えずに言ったのだとしても、それに耐えうる友情はまれであろう。それゆえ、人間は自身においても他人においても、偽装、虚偽、偽善であるに過ぎない。
彼は他人から真実を聞くことを欲しないし、他人に真実を語る事を避ける。正義と理性からかくも遠く離れたこれらの性情は、人間の心のうちに生まれつき根差しているものである」。多少の読解力を要す文言だが、キーワードは「迷妄」という言葉にある。あまり使わないが、「迷妄」の意味は、物事の道理を知らず、誤りを真実と思い込むこと。事実でないのに事実と信じること。
確かに言われる通り、世の中はそれで成り立っている。真実が少ないのではなく、真実が隠されている現状を憂いているということだ。言葉の主は『パンセ』の著者でもあり、「人間は考える葦である」という言葉を残したブレーズ・パスカルである。名著といわれる『パンセ』であるが、果たして日本人の中に『パンセ』を愛読するものが学者を除いてどれだけいよう。
自分も同著を強い関心ろ理解をもって読んだことはない。せいぜいかいつまんで抜き書きしているのがいいところだが、研究者によるとパスカルは、キリスト教がいかに素晴らしい真の宗教であるかを証明するために『パンセ』を書いたといわれている。『パンセ』の別名を『キリスト教擁教論」という。が、『パンセ』には主教論や人間論を超えた何かがあるようだ。
「人間論と宗教論を結び、両者への関心と理解を喚起するもの」は何か?というならそれが幸福論というものであり、したがって『パンセ』は幸福論といって過言でない。幸福論は不幸の自覚から始まるとするなら、パスカルの幸福論もまずは、人間がいかに不幸なものであり、いかに悲惨な状態におかれているかを描き出すところから始まっている。それが上記の文言である。
話を表題に戻そう。新年早々に彼女が送り届けたメールの真の意味は、言うまでもない交流の復活であろう。そんな言葉はどこにもないが、文脈や流れからしてそれを望んでいるが、書いている内容は、自身の婚姻後の労苦が大半を占めていた。それによって精神のバランスを崩していると書き添えてある。自分はそうした中味の意図から同情心を求めていると判断した。
同情を誘う手口は、女性が女性であるがゆえの共感を求めるテクニックで、昔からの手法である。ただし、現代の分析心理学では、サイコパスと危険視されている。最も顕著なのが、「可哀相なフリ」をすること。『良心を持たない人たち』の著者マーサ・スタウトは、「空涙はサイコパスの得意技」と述べている。そういう知識のある自分はそうした含みから文を読んだ。