沢山の出会いがあった。出会いの数だけ別れもあった。思春期の入り口を15歳とし、その後に異性との別れは結構あった。男と女が恋をすれば、恋から学ぶのは異性の正体だろう。正体?いや、実態というべきか。異性を知るためにはまず己を知ることが先決だが、そうもいかないのが若さというものだ。自分を知らずに、「異性が分からない」と、これが若さである。
「異性が理解できない」などという。それ以前に自分の性が持つ性質をわかっていないことが、異性についての苦悩であり、悩みの種である。「何で男はああなの?」、「なぜに女はこうなんだ!」。これらは、自身の特性を知らずに自らの主観で相手を見てしまうために起こる不満であり、イライラである。相手のせいというより一切は自分が作り出したもの。
これは異性に限らない。他人と自分の価値観の違いにおいても起こり得る差異とは、自分と他人を同じ価値基準で見てしまうところにある。これを視野が狭いという言い方をするが、視野が狭窄なのは人間が未成熟であるからだ。球はどこから見ても球だが、世の中は四角四面でなりたっており、球であるがごとく、どこから見ても丸く収まるということにはならない。
相手が分からない、理解できないからと責める前に、相手を理解できないのは自分の何であるかを考えること。視点や思考を己の内に向けてみると答えは導き出されることが多かった。したがって、相手を理解できないのは、理解できない自分がいるということになる。他人のことは自分の問題なのだと。例えば男は女ほど感情を使わず、理性的に判断することが多い。
それが理解できずにイライラを募らせる女性がいるが、理性的になれといってもすぐには無理だろう。女ができることは、男には男なりの考え方があるという性差を理解する。自分が絶対的に正しいなどと思わず、相手の考え方と自分の考えの相違点について考えたり話し合える人を賢いひととし、それ以外はバカ。これが目指すところの人間の成長もしくは成熟である。
「そんなことやってられない」とか、「そうまで冷静でいられるわけがない」という人、これがバカの常道。将棋を指す人にもいる。「俺はあまり考えない早指しだか…」などというが、自身のスタンスだから結構なことだ。なのに負けたときにこんな風にいう。「自分だって考えて指せばこんなもんじゃない」、「考えないから負けた」。よくもこんな羞恥なことをいうよ。
そんな言い訳をする奴らがじっくり考えて指すのを見たことがないし、できないことを、「しない」といってるに過ぎない。学校の成績についても同じことをいう人間がいた。「勉強すればできたけど、しなかったから」などと、こういうことを恥と思わぬところに成熟を感じない。勉強ができない人間を一般的にバカというが、「やればできた」、というのはバカを超えている。
当たり前のことを過激な言い方をするとこうなる。正月早々、「過激」が悪いとは思わない。そもそも、近年の正月のイメージは昔人間から見れば、以前のような独特の正月風情はない。それも正月ならかつての正月らしさはないが、これが現在の正月らしさという時代観である。昔人間はまた、「一年の計は元旦にあり」といったものだが、これもあまり聞かなくなった。
今年の正月は、ちょいと驚くことがあった。1月1日の0:01分に届いたメールである。それが誰かはおいおい話すが、思い出すのは、誕生日の前日から彼女のアパートに泊まったことがあった。一応することをして寝ていた矢先の夜中の0:00に起こされた。何があったのかと思いきや、0時を超えたら自分の誕生日だと、それでわざわざ寝てる男を起こす女も迷惑千万だった。
感動し、喜ぶとでも思ったのだろう、それが彼女の情緒である。こういう女の行為を「かわいい」と思うか、「わざちらしい」と思うか、男の感性であろうが、自分は起こされて不機嫌だった。なぜ、0時を期してでなければならぬのか?相手がそうしたかったという情緒の問題だ。最近の言葉でいうなら、「演技性人格障害」に十分当て嵌まるやりすぎの行為である。
「なんでこんな時間でなきゃいけないのか?」、「だって、そうしたかったんだもん」。小さな座卓の上には冷やしたシャンパンとバースデーケーキがあった。男の中には羨むものもいよう。自分もそんな風にされてみたい。望んでされるものでもないが、メーワクなことでも、喜んであげる感性は自分にはなかった。正直なのも時と場合によっては仇とでるもの。
さて、0:01分のメールの送り主はここにも記した45年前の恋人だった。書いてはなかったが、「一年の計は元旦にあり」を行為したのだろうし、そういう世代の女性。自分はこういう計略的なことはしない。「善は急げ」、「思い立ったが吉日」、「今日の仕事を明日に延ばすな」で生きてきた。物事を先送りするのが性に合わないし、今できる事を明日に延ばす理由がない。
もっとも、「今日できない事を明日できる人間はいない」ということを信奉している。人間は忘れることもあるから、何事も先送りする人間は、ついつい忘れて失敗をしたことがあったろうし、自分にもある。忘れにために手の平に書いておけというのも方法だが、何といっても忘れない最善は、今できることを今行うこと。これに勝るものはないし、沁みついている。
差出人のアドを見たときから、中身の想像はしたが、そのものズバリだった。出だしの言葉は、「45年もずっとどうしてるかと想い続けていて、偶然話ができた事嬉しかった。でも、突然私の前に現れて又突然去って行ってしまうのかと、やりきれない思いです」。45年前のことについても彼女は同じような言葉を述べていた。「何で突然私の前から消えたの…?」
彼女の視点に自分はそう映っていた。今回もそうだが、そうせざるを得ない理由をすくなくとも彼女は想像しただろうし、想像はすれども確たる理由は分からない場合が多い。世の中の人たちは、そうした際には、自分の責任をあれこれ考えたりするが、もし彼女がそうであったならのっけの書き出しは違うものになったであろう。おそらくこんな言葉が浮かんでしまう。
「突然のお別れを言われ、私なりにあれこれ思いを巡らせました。あなたがそうしなければならなかった原因は私にあったと思います。自分の非を認めることなく、あなたを責め、嫌な気持ちにさせたことは時間を経て、冷静に落ち着いてみればわかったりもするものです」。というように、少なくとも自らの非を、落ち度を真剣に思考する人なら、導かれる答えとなる。
思いのほか長文で、彼女がこんな長文を書く人とは思わなかった。その理由として、出会った当初は全角70文字のショートメールでの交流を提案され、自分はそれには不承知だったが再会の重みを考えて受け入れた。自分の携帯は子どもから贈られたもので、家族連絡に使うだけで、携帯は自分には荷物ツールである。持ち歩かないし、出会う人に番号を教えたりもない。