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覆水を盆に返すには…②

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藤吉久美子の不倫疑惑報道で感じたのは、何のために太川陽介が会見したのかである。それだけ見ても太川のバカさ加減が判ろう。おまけにあの笑顔である。意図は分からぬでもないが、亭主関白夫が妻に浮気をされたことの体裁の悪さを、どう誤魔化すかという会見だったに過ぎない。「笑って誤魔化す」という言葉があるが、あれはまさにその場面であった。

だから会見を開いたのだろうが、最近の亭主関白というのはなんともチャラいものよ。それでありながらあの対応や妻を信じるという発言が高感度を示したというなら、我々には今の時代感覚は理解できなくて当たり前ということになる。「人はその時代を生きる」というが、その時代とは人のピーク時をいう。藤吉は不倫はないといい、太川はそれを信じたという。

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あれほど状況証拠がそろっているにも関わらずである。「人を信じるということは美しい」といわれるが、それは真実が疑われた場合である。真実が尊いのであって、嘘で誤魔化す相手を信じるのがどこが美しいのか?「妻を信じる」という以上、妻は真実を述べなければならない。それとも太川は、妻のいうことが嘘だとしても信じたいというなら、何とも目出度い男よ。

普通に考えるなら、「妻のいうことは真実であるから信じる」なら分かる。「妻のいうことは真実とは思わないが信じる」というなら、その「信じる」は、「信じるに値しないこと」となる。「信じるに値しないことでも信じる」は、美しいのか?正しいのか?こんなバカげた小汚い話はなかろう。ならば問題なのは、藤吉が夫に真実を述べたか、嘘偽りを述べたかである。

人は誰も嘘をつく。その中には自分を守りたいがゆえの嘘もある。前にも述べたが、女が自分を守るために嘘をつかなかった経験がある。あの時の体験は自分の女性観を、いや、人間観を変えるほどのものであった。世の中には様々な「価値」があるが、その中には、「真実の価値」もある。「真実の価値」とは何か?改めてそれについて考えてみたい。

「道徳」というものがある。人間の社会にはさまざまな道徳がある。「他人に親切に」、「困っているひとを助けよう」、「信頼を裏切らない」、「浮気をしてはいけない」、「人のものを盗んではいけない」、「人を殺してはいけない」。これらを道徳という。「盗むな、殺すなは道徳というより犯罪だろ?」と思う人もいるが、道徳を法規制しているということだ。

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重大なる道徳違反あ、主体性に委ねるのではなく、強制的に守らせようと法で縛る。倫理・道徳・コンプライアンスなどが大切なのは誰もが分かっており、法で縛っているにも関わらず、不倫が横行し、犯罪が多発し、コンプライアンスを守ららない企業は、歴史のある大企業にまで及んでいる。一体なぜだ?なぜに人はそういうものを守ろうとしないのか?

 答えは簡単である。「目的のために手段を正当化しているから」である。不倫もそう、凶悪犯罪もそう、企業の不祥事も、みんなそれで片づけられる。言い方を変えれば、「目的のためには手段を選ばない」ということ。これは正しいのか?正しくはなくとも、分からなければいいという図式である。これも別の言い方をすれば、「善悪は露呈したときに判断される」となる。

絶対悪が風化し、社会全体が相対悪になりつつある。それを感じさせる現象ではないか。あの日産自動車が、神戸製鋼が、三菱が、東芝が…超優良企業の不祥事など珍しくなくなった。同じように、「えー、藤吉久美子が不倫?」と驚いた人は少なくない。不倫全盛の時代とは言え、不倫をしそうにない者がしたというのは、やはり驚きであるが、すべては仮面だったことになる。

もっとも本人は否定をし、相手の男は雲隠れしている。幸いなるかな藤吉の夫である太川にも、「(不倫は)なかったと信じる」と言わしめた。自分は下半身に人格はないと思っている。というのも、恋多き女であっても、仕事をし、キビキビもし、さっぱり感もあり、頭脳明晰で、どこから見ても淫乱風情はなく、どこかしこ崩れていない女性を幾人か見てきたからだ。

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「英雄色を好む」という言葉があるように、仕事のできる女性が「色」を好んでどこがおかしい?女性は清楚で控え目で大地に根を張った植物の如く、男探しにうそうそ動いてはいけないというのは、女性が虐げられ、抑圧されていた時代の名残である。「色を好んで何が悪い」、「男好きで何が悪い」とはいわないが、道徳的に崩れた人間の持つ弛んだ精神はどこにもない女性。

なぜ、彼女はそうであるのか?周囲が不道徳とみなす性の乱れを、堅物の偏見と意に介さないのはなぜか?話せばわかるが、ようするに彼女は強い女性である。自分が自由であるがゆえに、自分の好きな男が他の女とどうなったところで、それを許せるほどの強靭な精神をもっている。多くの人はこの記述を見ただけでは理解はできないだろう。想像力に長けていなければ…

「他人に依存しない者は自由に生きる権利を持つ」という言葉を自分は好むし、そのように実践をしてきた。これは「期待の期待というメカニズム」である。例えば不倫を嫌悪する人にとって、不倫実行者は自分の期待に添わぬ人、非好意的な人である。やがて人はそうした他人の期待を先取りする。そして不倫が個々の要求ではなく、社会一般の要求となっていく。

内心は「羨ましい」と思いながらも、道徳的な人にとっては批判の対象として自らの羨望を抑える。不倫批判者の多くの人の内心は「羨望」であったりするものだが、そんなことはおくびにも出さない仮面をかぶる。道徳は守るべきというものではなく、自分の弱さ、自立できないから仕方なく従っているに過ぎない。これも人間の卑しさと解釈できる。

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未成年者や子どもに対して「道徳的」に厳しいのは、彼らが単に未熟だからである。したがって、「所詮は道徳なんてものは、自立できない人間の弱さを表すに過ぎず、それがいいものだとはお世辞にもいえない」ということを理解できる人は、キチンと成熟した人間であろう。他人を傷つけたくないと躍起になる人間がいる。それはその人が傷つきやすいからだ。

だから、自分が傷ついた時のあの気持ちを、いま同じように他人が味わうと思うとたまらなくなる。井上陽水の『氷の世界』の中に以下の歌詞がある。♪ 人を傷つけたいな 誰か傷つけたいな だけどできない理由は、やっぱりただ自分がこわいだけなんだな…。ユニークな詞のようだが、実態としての陽水自身のことを書いている。彼は長年「感傷」を美と捉えていた。

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