「覆水盆に返らず」の出典は後秦の時代に成立した『拾遺記』とされ、以下の要旨となっている。太公望が周に仕官する前、ある女と結婚したが太公望は仕事もせずに本ばかり読んでいたので離縁された。太公望が周から斉に封ぜられ顕位に上ると、女は太公望に復縁を申し出た。太公望は水の入った盆を持ってきて、水を床にこぼし、「この水を盆の上に戻してみよ。」と言った。
女はやってみたが当然できなかった。太公望はそれを見て、「一度こぼれた水は二度と盆の上に戻ることはない。それと同じように、私とお前との間も元に戻ることはありえないのだ。」と復縁を断ったという。もう一つ有名なのが朱買臣の逸話であろう。平安末期に編纂された27話からなる説話集『唐物語』の第19話、「朱買臣会稽といふ所に住みけり…」とある。
昔、朱買臣というものがいた。彼は努力家で、とても勉強家だったが、生活は苦しかった。そこで彼の妻は言った。「別居して、それでも愛し続けられるか試みてはどうでしょう」。朱買臣は妻にこういった。「私は50歳になったら富貴な身分になるが、もう40歳を超えた。お前は今までずっと苦労していたから、私が富貴になるのを待っていれば大いに報いようと思う」。
それに対して妻は、「貴方と一緒にいてものたれ死ぬだけです。どうして富貴になれましょう」と怒ってしまい、仕方なく朱買臣は離縁を許した。翌年、県知事となった朱買臣は国に戻り、妻を探したが見つからない。ある日遠くにとても貧乏で身分の低い女とその夫が道を清掃しているのを発見した。見間違いかとも思ったが、よくみると間違いなく元妻である。
声をかけるのを躊躇い、気を使って日が暮れるのを今か今かと待ち、日が暮れた瞬間に声をかけた。女はびくっとして朱買臣を見、元夫であるのを悟った。朱買臣は二人を車に乗せて太守の公舎に置いて食事を給したが、斬鬼の念に堪えられない元妻は一月ほどして自殺してしまった。朱買臣は夫に葬る費用を与え、その他にもかつて恩があった者と会食するなどし、恩に報いた。
伝説・説話には美しいものが多いが、史実とは限らない。朱買臣は前漢の人物だが、太公望の時代は書物などほとんどない。我々後人は、このような説話から何を学び、何を得るかであろう。坂口安吾はこう述べている。「人倫は水のように自然のものなんだ。ひっくりかえって流れた水は、どう仕様もねえや。もっとも、自然に元へ集ってくれるなら、それも良しさね。」
「覆水盆に返らず」は、その出典から、「一度離婚した夫婦は元に戻ることはできない」とされ、それが転じて、「一度起きてしまったことは二度と元には戻らない」と言う意味に使われる。本当か?本当だろう。しかし、「絶対」という言葉はこの世にない。例えば光の速度は秒速30万kmを超えないという物理現象として自然界にはあっても、人間界に、「絶対」はない。
「絶体絶命」という状況はあっても、どう好転するかわからない。自分は、「覆水は盆に返る」を信じる。が、安吾のいうように、「自然に元へ集ってくれるなら…」とはならないし、安吾は人為では難しいことを表現したのだろう。ネットには、「元には戻らない」という肯定派が多く、理論的な説明がなされているが、理論は行為ではなく、やってできないとは思わない。
「不可能」という言葉を絶対的に使うのも正しくない。なぜなら不可能は、「可能にあらず」ということだからやってみることがまずは前提であり、問題はそのやり方にあろう。例えば、信じあっていた彼氏や彼女、夫や妻の浮気はされた側にとっては苦悩であろう。が、許しがたい苦悩かどうかは、過ちを犯した側の真摯な反省と、以後の捨て身で接する行為にかかっている。
それをやれてこそ真の反省であり後悔である。どのように罵倒されようと、叩かれ、足蹴りにされようと、犯した事実は消えることはないが、「赦し」によって減免され、犯した側の態度遺憾によってはついには赦免になることもある。赦免は感情の問題だから、赦免をしたくなるような相手の態度があってこそである。それを不可能というのは言葉の論理でしかない。
現実に元の鞘に収まったケースはいくらでもあるが、これは、「覆水盆に返った」事象とは言わず、「盆に新しい水が乗った」という。などと理屈をいう者もいるが、言葉はどうであれ、当事者が赦免によって許され、わだかまりのない状態に戻ったなら、零れた水が盆に返ったといえなくもない。理屈好きには承諾できないだろうが、つまらぬことで意地を張るなである。
昨日、「渡辺謙と南果歩が“離婚交渉”をスタート!」という見出しがあった。渡辺の不倫疑惑報道は2017年3月に遡る。渡辺は会見で不倫の事実関係を認めたものの、今後の結婚生活については、「言える立場ではない」と明言を避けていた。これが有責配偶者としてのあるべき態度であろうが、その後の別居生活などから、修復への歩み寄りは見られなかった。
こういう場合に、「盆に水は返らない」となる。渡辺が盆に返そうとしなかったということなら、妻はすることは何もない。泣いてすがっては見ても、夫の態度が頑ななら、むしろ泣いたりの行為はすべきでない。なぜなら、妻に直接的な非はないのだから…。しかし、夫婦のこと、男女のことにおいて、一方だけに全面非があることはない。だから、話し合いでそこを見出す。
真の話し合い、善意なる話し合いというのは、互いの非を認めあうことであって、そういう態度が大事である。自分の非を指摘されずとも客観的に認め、それを反省し、解消する努力ができるかどうかであって、それがやれるなら覆水は盆に返らぬことはないが、人間は弱いがゆえに傲慢である。自分を変えて不自由に元の鞘に収まるなら、新たな生活を望むだろう。
要は元に戻りたいか、戻りたくないかということだ。したがって、「覆水盆に返る」というのは、それを絶対的に目指そうという強い意志がいる。なぜそうしたいか?これが夫婦という男と女の一期一会を大切に、大事にする気持ちである。人間は誰にも自尊心がある。その自尊心をかなぐり捨ててでも、相手との信頼関係を大事にするか、したいかということになる。
昨今の夫婦の多くはそれがない。所詮夫婦は他人であり、婚姻は紙切れ一枚のものというのは、古今同じであるが、それが、「覆水盆に返らず」の乱造となっている。今井絵里子、斉藤由貴、山尾志桜里、乙武洋匡ら、「疑惑も含めて、不倫の何が悪い」という態度は、誰かの言葉を借りれば文化遺産であり、それとは異質の涙会見を見せた藤吉久美子の不倫否定の核心を考える。