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赤穂義士の武士道 ⑤

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先のプリンクリンが感動したという場面というのは、日本の武士が生命に変えてまで守り抜こうとした、「名誉」の美しさにあった。大正元年(1912年)9月13日、明治天皇の御大葬の日、陸軍大将乃木希典は天皇に殉じて自刃を遂げた。殉死は300年前の寛永三年(1626年)に禁止されていた。赤穂浪士の武士道は、『葉隠』のいう「死ぬこととみつけたり」とは異質であった。

赤穂浪士たちは結局死にはしたが、それが最後に残された選択肢となるような、合理的な合理的な思考径路をたどっていたことになる。物事は時として裏から見なければならぬこともある。「武士道」について、いわゆる義士の側から見た事例は史実の通りであるが、さて、それを不義士の側に立ってみればどうであろう。大石と並ぶ城代家老だった大野九朗兵衛のこと。

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大野は途中で変節したのではない。彼は確信犯的な不参加者であった。元禄時代、赤穂塩田の経営並びに浅野家の財政は赤穂藩4人の家老のうち、末席家老で当時城代の職にあった大野九朗兵衛が万事を執り仕切り、筆頭の国家老大石内蔵助は、算盤もできない駄目男であった。そのため藩内で大石を昼行燈とあだ名して笑っていたというが、これは正しくない。

それはいいとして、取り上げたい二名は、大石と共に江戸へ下り、決行直前になって逐電した脱落者の中村清右衛門と鈴田重八である。二人はそれぞれ置手紙を残して消えた。清右衛門は、父親もしくは目上の親族から、「討ち入りの徒党に加わるなら腹を切るとか、年老いた母を見捨ててよいのかと迫られたようだ。重八も母を捨てるか武士の一分を守るかのジレンマである。

両者とも切羽詰まっての脱盟のようだ。これが武士道足り得るのか?彼らは武士なのか?いや、これが武士道であり、彼らは紛れもない武士である。人間の心は変わりやすいのである。「節婦は二夫にまみえず」という言葉があるが、個人の主体的自由の精神でいえば、こういう禁止は非人間的であろうが、女心は変わりやすいという洞察の真理に於いては人間的である。

女心は変わりやすいが、男心が変わらないということではない。武士道とは武士階級に発達した道徳に過ぎないゆえに、道徳を破るのもまた人間である。二夫にまみえようが節婦でないと誰が言えよう。「忠臣はニ君にまみえず」も同じことで、二君にまみえようとも忠臣は忠臣である。多くの助命嘆願があり、幕府内でも論争があり、林大学頭と荻生祖徠は意見が対立した。

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林は「同情宥免論」、荻生は「有罪厳罰論」で、二人の対立意見は出発点が違い、目標とするところが違うから、妥協点が得られない。が、将軍綱吉はこのどちらかを選ばねばならぬ。綱吉は殿中刃傷の際は、老中の諌止にも耳を傾けず即日切腹を命じた気短でありながら、吉良邸討ち入り事件の裁断に躊躇、12月15日に浪士を四家へお預けにした後、年が明けても決裁を与えない。

独善主義の綱吉であるが、一面理義に明らかで、自分が忠孝主義者であるために、その好むところに偏して、天下の大法の権威を失墜せしむるような事をしてはならぬと、常に自ら戒めていた。彼はその衷心に於ては助命してやりたいと希望しながら、法の権威を維持するのは自分の何よりも大なる責任と考えて、涙を揮りながら、「切腹申付けよ」と裁決するに至った。

坂口安吾は『堕落論』の中で赤穂義士について以下のように記している。「徳川幕府の思想は四十七士を殺すことによって、永遠の義士たらしめようとしたのだが、四十七士の堕落のみは防ぎ得たにしたところで、人間自体が常に義士から凡俗へ又地獄へ転落しつづけていることを防ぎようもない。彼らが生きながらえて生き恥をさらして名を汚さぬようにとの老婆心であろう。

武士道における「死」の概念は宮本武蔵の『五輪の書』にもある。「武士論の説く、忠の不忠の、義の不義という議論は生命に執着する人間に、生きのびることを正当化する理屈を用意するものであって、死ぬ事のみにおいて真実に生きうるとするものである」。"死ぬ事のみにおいて真実に生きうる"の意味は分かるが、現代人は真実に死ぬより嘘で生きながらえたい。

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「武士道」を敢えて「武士道精神」というのは、江戸中期に始まり、明治になって武士から軍人へと引き継がれた為政者の論理で押し付けられた武士道という概念ではなく、義と意地のためには命さえ惜しまぬ武士個人の生きざま、魂、美学などの精神をいう。赤穂義士の武士道と新選組の武士道を比較するに、新選組は何の思想も持たない殺人集団という見方がなされる。

新選組の「局中法度書」は、武士として生きんがための憲法であり、生への道標である。ここでいう「死」とは、罰則規定に他ならないが、私心を殺して誠忠をつくせ、という訓戒である。至誠貫徹のための局中法度書に反した者は幹部といえども切腹の厳罰となる。その番人が土方歳三だった。土方の旧友であり、大幹部であった山南敬介とて例外ではなかった。

元治2年(1865年)2月21日、山南敬介、藤原朝信が脱走した。大津の宿で沖田総司に捕らえられ、尋問を受けた後に沖田の介錯で切腹した。山南の脱走理由は定かでないが、局中法度書第一条、「局を脱することを許さず」に抵触したための切腹である。新選組の隊長近藤勇は千葉・流山で投降斬首にて散る。副長土方歳三は弁天台場に孤立救出のため敵陣に突進した。

近藤も土方もともに隊士救出のために自ら犠牲を厭わなかった。二人の行動は義を貫いた士道の実践である。新選組の武士道とは散華と見つけたり。赤穂義士の武士道には観念としての武士道はないが、元禄という平和で浮かれた時代に仇討ちを果たして庶民を驚かせた彼らの武士道とは情念の武士道であろうか。歴史を遠くから眺めれば、そこにはロマンがある。

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時空を超えたはるか昔、この地、あの場所で繰り広げられた幾多の出来事。空間と時間のロマンがそこにある。45年前の恋人に遭遇したのも、人間の刹那の人生における歴史の1ページであろう。50年前になるだろうか、「人に歴史あり」という番組があった。人はみんなそれぞれの自分史っていうものがある。変えることのできない生きざまが自分を作ってきた。

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