南部藩士を父に持つ新渡戸稲造は、まぎれもない日本人だが、英語で『武士道』を著した。日本人が異国語で武士道を論じたということは、その事だけでも異国人の目で武士道を見たことになる。英語によって武士道を可能な限り典型的な、能う限り日本的な美徳として描き出そうとする新渡戸の感性および知性の裏付けとなったのは、典型的な西欧思想(キリスト教)だからである。
「忠義」を道徳的教義よし、寡黙で感情を面に出さず、高い品性と武を貴び、赤心の証明のためには躊躇いなく腹を切る。その切腹に重要な役割を果たすからこそ、刀は、「武士の魂」となった。斯くなる武士は、「美しい理想」を体現する存在となり、「花は桜木、人は武士」と讃えられるようになった。新渡戸の『武士道』にある説明を大まかにいえばこんな感じである。
が、「武士道」は武士が本質的に新渡戸のいうような在り方をしていたから自然発生的に生まれた言葉ではない。戦国時代に来日したイエズス会の日本巡察使アレッサンドロ・ヴァリニアーノは、当時の武士を以下指摘した。「武士は好色、男色も好み、それを誇りにする者もいた。平気で嘘をつき、残虐に人を殺し、絶えず諍いを起こし、酒におぼれる者も少なくない。
また、主君に対する忠誠心に欠け、都合悪くなれば悩むことなく主君を裏切った。粗野なエネルギーに溢れ、自由奔放に生きている。これはまあ、武士に限らず人間とはこうしたもので、特筆することでもなければ、禁欲的キリスト教信者から見たら誰でもこういう風に映ろう。こうした人間の本性を枠に嵌めて規制をすることで支配体制の確立を狙ったのが家康とブレーンである。
天下平定した後の徳川家康以下幕府中枢がいろいろと考えを巡らせた結果、儒教道徳を基盤とする武士道が組み立てられ、幕藩体制を勧めていった。つまり武士道とは、あくまでも封建制度、独裁政権の確立と維持のために発生したものである。また、支配階級である「士」を、それ以下の階級である、「農・工・商」と差別化をするためのものでもあったといえる。
徳川の治世下で武士道が形を整えてゆく様子をフランスの思想家モーリス・パンゲは、「義務を尽くすことの満足感を学び、尊敬に値する外面を保つことが全ての侍たちに要求される。暴力は凝り固まって規律となる。重々しい動作、深みのある声音、勿体振った立居振舞、儀式ばった作法、要するに侍は自己の全身をもって威厳というものの劇場たらしめるであろう」と皮肉った。
平たく言うなら、武士道はとりあえず武士の「恰好付けの道具」だった。そうはいっても長い歴史を生き抜いた武士の生き方の美点を拾い上げて集大成したことに異存はない。また、天文18年(1549年)8月に日本に来た宣教師フランシスコ・ザビエルはこのように述べている。「武士はまた領主に奉仕することを非常に自慢しながら、領主に対しては平身低頭である。
これは主君に逆らって主君から受ける罰という恥辱よりも、主君に逆らうことが自らの名誉の否定だと考えているからであるらしい」。幕末の安政6年(1859年)に開港した横浜にその二年後に来日、プロテスタント宣教師として働いたマーガレット・バラは、忠臣蔵に眉をひそめて述べた。「私たちには大罪として考えられていることが、日本民族の育成に、微妙にその影を落としている。
このような社会組織の中で生まれ育った人たちが、外国人に対する大量虐殺を、高貴な愛国心の発露によるものと見なしても不思議ではないでしょう」。バラは武士道の鑑と賞賛される仇討ちが、危険なナショナリズムにつながる事を見抜いている。事実はその通りになり、昭和年代に日本は壊滅的な打撃を被ることになった。バラは先見の明で武士道を見つめていた。
子どもの頃から時代劇映画を観、チャンバラごっこに興じた我々にとって武士道の概念はどのように浸透しているのだろうか?バラのいう「外国人への大量虐殺と武士道を結び付けるのは違和感を感じるが、武士道がさらなる蒸留され、鈍化されて、「大和魂」に高められていったのは間違いない。新渡戸自身も国威発揚期の武士道観としての印象を述べている。
貶す神あれば褒める神もある。元フランスの駐日大使ポール=クローデルは、第二次世界大戦の最中の1943年に次のようにいった。「私が決して滅ばされることのないようにと願う一つの民族が日本民族だ。あれほど興味のある太古からの文明をもった民族を他に知らない。(中略) 彼らは貧乏だが、しかし彼らは高貴だ。1863年生まれのクローデルは詩人でもあった。
侍が、子孫代々伝えてきた日本特有の特性としての武士道の道義(節・義・廉・恥)といったものは、幕末から明治期を通じて、淡いながらものこされていた。明治維新の前年に来日したイギリス人フランシス=プリンクリンはも武士道に接した印象を以下書いている。「来日した途端に欧州の中世時代に似た日本の風物に接し、驚き目を見張り、日本人の礼儀正しい姿に魅了された。
そのことがあってから私は心から日本人に愛着を感じた」。さらにプリンクリンは日本永住を決意した動機が、偶然目撃した武士同士の果し合いにあった。彼が言い知れぬ深い感動を覚えたのは、果し合いで勝利した武士が先ほどまで敵として刃を交え、自ら斃した相手武士に自身の羽織をもって遺体を覆うと、その場に跪いてい恭(うやうや)しく合掌した姿を見た事であった。
それ以来、名門の出でもあり将来を嘱望されたいたにもかかわらず、45年もの間、プリンクリンは日本女性を妻に娶り、日本の誠実な友人として生涯を日本に送った。大正元年10月、日本政府は71歳で没したかけがえのない友人に勲二等を贈り、葬儀には貴族院議長・徳川家達、外務大臣・内田康哉、海軍大臣・斎藤実らが参列し、多年の友情に感謝の意を表した。
プリンクリンと同時期に日本に滞在し、後に帰化したラフカディオ=ハーン(小泉八雲)もそうした一人だった。明治23年に来日したハーンは、終生、日本のよき理解者であった。ハーンは友人宛の手紙で、「古き日本の文明は、道徳面においては西洋文明に物質面で遅れをとっているその分だけ、西洋文明より進んでいたのだ」と逆説的な指摘をしている。