沈む夕陽のなかに赤く染まりながらも、「平凡に生きたい」。「平凡な人生が欲しい」と涙する三島であったなら、彼こそは平凡な人生を送る資格者になり得ただろう。自己の存在の特殊性という悲劇に涙することなく、ただ当たり前のように平凡な生活を始めるものは、抑圧に加担していることになる。三島が唯一、「真」と見つめるものが「死」であったかもしれない。
自身の言動について、それが愚直なまでに真実であることを、人はどのように説明できるであろうか?言葉などは嘘の塊として利用される。己の行為を言い訳や理屈を排除し、真に意図するものであるのを証明する方法は、死んでみせること以外になかろう。だから、武士は切腹をしたのである。死ぬことによって、二言なきことを証明して見せたのである。
「これは本当だ」、「偽りなき本心だ」、「命を懸けてもいい」、などと大袈裟にいうが、それだけ大袈裟にいうことで信憑性を証明する。「命を懸けて…」とはいうものの、誰が死んで見せる者がいよう。所詮は口ばかり、口だけで真実を証明しようとするが、武士は言葉というまやかしに頼らず死んで見せる。何という愚鈍さであろうか?それが現代人の思いである。
三島のアナクロニズムは、それを実行できる精神性を磨いてこそ、アナクロニズムたる所以である。特攻も万歳攻撃も厭わぬ武士道の精神性は、赤穂義士とは対極であろう。赤穂義士に武士道はない。『葉隠』のいう、吉良を討ち取った後に生きながらえんとした理由は何であろうか?太平の世のもたらすふやけた時代観なのか?やはり、元禄時代の武士道精神は歪であった。
「元禄忠臣蔵事件」というのは、「武士道」の是認する、「正義」の発動のイメージされがちだが、当事者たちの残した史料からは、そうした体系をもった、観念としての「武士道」は読み取れない。「赤穂四十七士」が、「赤穂義士」と呼ばれるようになったのは、儒者である室鳩巣が彼らが切腹の年に、『赤穂義人録』をあらわし、浪士たちを称揚したことによる。
新渡戸稲造も著書、『武士道』のなかで、敵討ちは武士道が是認した正義の発動と記している。しかし考えてみるに、「武士道」という観念がまずあって、赤穂浪士たちはその間尺に合わせて行動したのではなく、順序においては逆あった。四十七人の浅野家浪人たちが成就した亡君の仇討ちという行動様式の内なるものを後人が、「武士道」という名で顕彰したに過ぎない。
命名の前に行為の実態があり、四十七士当事者たちは自らの行為の精神性をどのように見ていたのだろうか。武闘派の雄として名高い堀部安兵衛は、『堀部武庸筆記』にこう書いている。浅野家を再興するという口実で、主君の仇敵を見逃すなどという事ができるか。上野介は亡君が無念にも討ち洩らした敵ではないか。我らは大学様にさえ手向かうのを辞さない」。
安兵衛は行のなかで一か所、「武士道」という言葉を用いている。我らの主君は誰であるか。浅野大学は分家の親類というまでのこと、我らが主君と仰ぎしは、内匠頭様の他にはいないと、これが安兵衛の心意気である。彼には大学への忠誠心はひとかけらもなく、大学によるお家再興は、浪士の命を惜しむ遁辞と見えていたようだ。安兵衛は大石すらそうではと疑っていた。
史料なきゆえに分からないが、内蔵助が大学に忠誠心を持っていたかどうかも何とも言えない。浅野大学は四十七士の討ち入りが成功した7年後、幕府旗本寄合衆に復職したが、それで満足をしていたという程度の人物である。もし、討ち入りが上手くいかなかったらそんな処遇もなかったろう。内蔵助の大学への忠誠心の有無について思考の前に大石は城代家老である。
したがって大石の第一義の責務とは、浅野家の家筋を立てることである。それらが武闘派安兵衛らに歯痒い思いをさせていた。ところが元禄15年7月、幕府は大学に内匠頭係累からの赦免をしたが、赦免といっても広島の浅野本家にお預けという処置であった。これではもはや選択の余地はない。大石をはじめ浅野藩勇士は、江戸の武闘派と合流すべく天下りを開始した。
吉良邸討ち入りの12月14日まで5か月前であった。方針が一本化して実行計画が固められたこの時期、四十七士の内の何人かが親元や親類縁者、友人宛に書き送った書状が残っている。書状のなかには当人たちがなぜ最後まで復仇徒党に踏みとどまったかの心情が綴られているが、9月5日の大高源吾の老母に宛てた書状は長文ながら分かり易くしたためてある。
大高の禄高は二十五人扶持と軽身ながら、内匠頭の生前には中小姓を勤めていたが、特別の愛顧を受けていたという君臣の仲でもないが、源吾にはかつて側近く仕えた日々のことが忘れられない。と源吾は書き起こしている。こうした文面から思い出されるのが佐賀藩士山本常朝の『葉隠』である。『葉隠』は1716年頃に書かれたもので、討ち入りの14年後となっている。
『葉隠』には、主君の目に止まる止まらないにかかわらず、らだ一途に思いつめることが御奉公とある。常朝はその心情を、「長けの高き御被官なり。恋の入れのやうなる事なり」と形容した。これは、「葉隠武士道」のエッセンスたる、「忍ぶ恋」の極致であろう。『葉隠』にいう、「君臣の間の恋の心の一致成る事」教義なるは、まさに武士道は衆道と表裏一体である。
衆道とは、「男色」をいうが、市ヶ谷駐屯地において三島由紀夫と共に自害した森田必勝(享年25歳)を彷彿させられる。『葉隠』の赤穂浪士批判は、「浅野殿浪人夜討ちも泉岳寺にて腹切らぬが落度なり。また、主を討たせて敵を討つこと延び延びなり。もちその中(うち)に吉良殿病死の時は残念千万なり」とある。要するに間を置かずにすぐに討ち入る事こそ武士道という。
成否などは問題ではないというところに、行為としての武士道の美学をみる。戦時中の日本兵が、機銃や鉄砲の弾丸の中に突撃をする、「万歳攻撃」こそが武士道の神髄を模写したもので、欧米の戦術論からすればこれほど無為無策のバカげた行為はない。まさに狂人如きの振る舞いであろう。1946年に出版されたルース・ベネディクトによる『菊と刀』は日本人論である。
日本人識者にも賛否両論あるが、哲学者の和辻哲郎は、「各人が自分に相応しい位置を占める」という標語を侵略主義者が使ったからといって、この語自体、侵略主義的な意味を付するのは詭弁であり、この標語が日本文化の型の核心である階層制度を表現しているというに至っては非常に独断とし、国粋主義的軍人の型を論じているが、日本文化の型を論じていない」と批判した。
『菊と刀』は読むに値しない本であるという。『ビルマの竪琴』の著者であり、ドイツ文学者で小説家の竹山道雄は、「諸文化は総体的であり優劣は言えない。罪の文化と、恥の文化が、どっちが上とも言えない」と述べている。民俗学者の柳田國男は、日本人ほど、「罪」という言葉を使う民族はいず、日本人は道徳律欠如したという著者を、「事実に反する」と切り捨てている。