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赤穂義士の武士道 ②

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イメージ 1宗家を広島藩主に、分家を赤穂藩主に持つ浅野氏家系は、清和源氏頼光流土岐氏の庶流で、承久の乱後に土岐郡浅野の浅野館に蟄居すると共に浅野氏を名乗る。当主浅野長勝は尾張織田氏に弓衆として仕えた。天正年間に安井城(現・愛知県名古屋市北区)を築城後、後に浅野城(同県一宮市)に移る。その後、織田信長の命により羽柴秀吉に属す。養女ねねは秀吉の正室となる。

広島藩浅野家の支藩にあたる播州赤穂城主浅野長矩は、5万石ながら塩田の実入りが多く、実質は7万石超であったといわれている。長矩は別の支藩である備後三次(広島県三次市)藩主・浅野長治の三女阿久里を妻に迎える。長矩の刃傷事件後、赤穂藩は改易となるが、阿久里は長矩切腹後の2日後には赤坂にある実家の三次浅野家下屋敷に引き取られて落飾、瑤泉院として夫の菩提を弔った。

元赤穂藩家老の大石良雄らが吉良邸討ち入りを決定すると、瑤泉院は自身の化粧料である赤穂の塩田から上がった運上銀を大石に託し、彼らの生活を陰ながら支えた。討ち取り後幕命により切腹となった浪士の遺児たちのうち、伊豆大島へ流された吉田伝内・間瀬定八・中村忠三郎・村松政右衛門の赦免運動にも尽力し、宝永3年(1706)病死した間瀬を除く3名の恩赦を実現させた。

それらから瑤泉院という人は慈愛に満ちた女性であるのがわかる。長矩切腹後、赤穂藩筆頭家老であった大石は、仇討ちよりも家名断絶だけは避けるべく立場であった。長矩の弟浅野大学によって浅野家が再興されることを期していたが、大学は広島の浅野本家預かりとなる。もし、大学によって浅野家が再興されたならば、大石は仇討ちをしなかったのではないか。

つまり、討ち入りを決めた理由は、浅野家再興の夢が完全に断ち切られたことで決意をしたとみるのが妥当。家名断絶は何としても避けたい当時の状況からして、君父の仇討ちが家名再興に優先するなどあり得ない。大石の浅野家再興運動は結果的に実を結ばず、大学が浅野本家預かりとなったのが元禄15年7月18日であった。吉良邸討ち入りはその5か月後に行われた。

歴史に、「たら・れば」はないが、浅野大学によって再興されていた後に仇討ちをするなら、何のためのお家再興であろう。その後に吉良邸討ち入りなら、それこそ一族郎党島流しである。よって、「たら・れば」はなくとも確実性の高い事象と推察される。元禄という太平の世にあって、庶民の多くは君父の仇を討つなど、そんな立派なことができるわけないと思っていた。

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そんな忠臣はいないと…。それが四十七士を忠臣蔵に押し上げた。昔から良い物は蔵に収めるものであるから、義士を蔵に収めたのだろう。忠臣蔵の意味が分からず、大石内蔵助のもとに集まった忠臣の意味であろうと思っていた。浅野家再興の可能性があったころには120人もの同志が、再就職を目論んでいたが、その夢が消えると脱盟者が続出、大石は改めて誓紙を交わす。

これで50名に絞られたと赤穂藩の家臣の動きに詳しい『江赤見聞記』は伝えている。最終的に討ち入りに参加したのは47名で、多くは下級武士であった。大高源吾は20石5人扶持に過ぎない。100石未満は、間喜兵衛ら20名、部屋住みは大石主税ら8名、不破数右衛門は浪人、堀部弥兵衛は隠居の身であった。大石内蔵助は1500石、次いで片岡源五右衛門は350石であった。

討ち入りの中核を担ったのは、150石から300石の馬廻り(主君の乗る馬の傍で警護にあたる)階級で、16人を占めていた。長矩の弟大学を建ててお家再興が主眼であった事を知らずでか、『葉隠』の山本常朝は赤穂義士を批判している。『葉隠』には、「打果すとはまりたる事ある時、例えば直に行きては仕果せ難し、遠けれども此道を廻りて行くべしなんどと思はぬもの也」。

という事がかかれており、「武士は、事を処理する時期を失ってはならず、その場を外すとかえって不甲斐ない、間の抜けたものになる」という教えである。これ故に『葉隠』は、赤穂浪士を批判する。「又浅野殿浪人夜討も、泉岳寺にて腹切らぬが落度なり。又主を討たせて、敵を討つ事延び延びなり。若し、その内に吉良殿病死の時は残念千万なり。

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上方衆は智慧かしこき故、褒めらるゝ仕様は上手なれども、長崎喧嘩の様に無分別にする事はならぬなり」。批判は以下の三点。①吉良を討ち取った直後に泉岳寺で切腹しなかった。②刃傷事件後に内匠頭が切腹してから、吉良を討ち取るまでに1年9か月の間を置いている。③討入りのような用意周到で衆目を賑わすようなやり方はできても、無分別な喧嘩ができないことなど。

喧嘩、口論、交渉事など、武士はその時その場の時機を外さず、断乎やるべき時はやる。例えば今すぐやるのは諸般まずかろうとか、遠いが廻り道をした方が成功の確率が高いなどと考え、延ばし延ばしていたら、心に弛みができてやれなくなってしまう。これが『葉隠』の考え方である。つまり、結果よりも志と行動を尊重する論理で、正に、「死狂い」思想そのものである。

三島由紀夫に『葉隠入門 三島由紀夫』という著書がある。が、三島の11・25の行動そのものだということだ。『葉隠』は、太平洋戦争時の万歳攻撃や、航空機による特攻に受け継がれる思想である。こうした無策、戦略論なき精神性は、「大和魂」という言葉に変換されたが、今の時代においては死語になっている。つまり、戦略論は精神論を凌駕するという近代思想である。

「犬死にの美学」は、合理的思考の前に持て囃されることがなくなった。日本人の精神性は欧米合理主義の前にひれ伏さなければならなくなった。三島はアナクロニズムの思想家などで説明をされることになる。五木寛之は、「もし三島がロック(音楽)に興味を持っていたなら、ああいうことにはなかったろう」と述べているが、どういう意味かを考えたことがある。

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細かいことは除いて大意をいうなら、結局五木にとっての三島は、悩めるおぼっちゃまということだったようだ。自分を深く洞察することで、自分という存在が他人とは違うのだという特殊性を持った三島の不幸は、育てられ方にあった。特殊性と普遍性、非凡と平凡、正常と異常という自己の二重性の矛盾を我が身に引き受けないものは、間違いなく抑圧者である。

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