師が走り回るほど忙しい時節というが正確な意味ではないようだ。11月25日は、三島由紀夫切腹の日、12月14日は浅野長矩切腹の日だから一週間遅れの「忠臣蔵」だ。命日は忌日ともいうが、人が死んだ日を命日としたのは、『灌頂経』という仏法における法律や慣習を記述した書物の中にある、「命過日(めいかにち)」から取られている。「過」は過ぎるということ。
一期の寿命が過ぎ去った日という意味からこれを略して、「命日」とした。「命の日」ではなく、「命過ぎ去る日」それが命日である。父の生年月日を忘れることはないが、時にであるが、命日を忘れるのはなぜか?自分のことでありながらもこれといった理由はわからない。父の誕生日は大事でも、死去した日は自分にとって大切な日ではないのかも知れない。
父が存命なら何歳…などと考える。死んで何年経ったなどはあまり考えない。おそらく自分の心のなかには、生きた父のことばかりある。父の思い出はありし日のものしかなく、当たり前だが死後の父に思い出はない。死後に対面したが死に顔は思い出さない。少年期の想い出、青年期の想い出、少しだけ壮年期の想い出もあるが、父は今でも自分のなかで生きている。存命なら101歳だ。
いつだったか上京した父と二人で泉岳寺に行った。父が最も行ってみたい場所、それが泉岳寺だった。慶長17年(1612)、外桜田(現・千代田区)に創建された曹洞宗の寺で、寛永18年(1641)の大火によって焼失、現在の高輪の地に移転再建された。その際、浅野家が尽力した縁で菩提寺となった。赤穂浪士は元禄15年の義挙後には四十七士の墓所としても知られている。
一般に、「忠臣蔵」の名で知られる、「元禄赤穂事件」とは、元禄15年(1702年)12月14日深夜、江戸の本所(現・墨田区)にある吉良邸へ、赤穂浪士47名が討ち入ったことをいう。江戸開府からほぼ100年。著しい経済発展とともに町人文化が花開いた時代である。当時、武士階級は侍というより、官僚として事務仕事に精を出す者がほとんどで、世の価値観が大きく転換する時期であった。
そんな時代にあって、元禄14年3月14日、藩主浅野長矩切腹から1年9か月後の元禄15年12月14日、君父の仇討ちに吉良邸にお討ち入った赤穂の浪士は、武士の意地と「義」を貫いたことで一躍庶民の英雄となった。彼ら四十七士の物語は、300余年経った現在においても魅力を失っていない。史実となる、「赤穂事件」と、芝居となった、「忠臣蔵」では、様々な点で違いがある。
芝居としての、「忠臣蔵」のもととなる、「仮名手本忠臣蔵」は、寛延元年(1748年)8月、大坂竹本座にて初演されたが、もととなる、「碁盤太平記」を書いたのは戯作者の近松門左衛門である。「碁盤太平記」は、南北朝時代の軍記物語『太平記』の世界を映したものだが、大星由良之助(大石内蔵助)、高師直(吉良上野介)などの名が登場し、「仮名手本忠臣蔵」に引き継がれる。
史実の赤穂事件については資料が現存するが、江戸城内における浅野内匠頭長矩の刃傷事件が発端となる。一国一城をなげうって刃傷に及ぶのは正気の沙汰ではなく、その理由ろして逆上説や持病説がある。しかし長矩は、「遺恨覚えたるか」と叫びながら吉良に斬りかかっている。当時、仇討ちの際は、「覚えたるか」と大声発しながら斬りかかるのが作法であった。
作法通りに行動した長矩ゆえに、突然キレたとは考えにくい。今に至って刃傷の理由ははっきりせず、長矩自身も目付の取調べに対し、「遺恨あり」としか答えていない。遺恨の内容を語っていないことで様々な説が生まれ、吉良義央と長矩の対立の理由がいくつか言われている。その中で、「勅使饗応役の伊予吉田藩主・伊達宗春より進物が少なかった」という説がある。
長矩は伊達宗春とともに勅使饗応役を命ぜられたが、その際、高家筆頭吉良義央より作法指南を仰ぐことになり、その返礼として吉良家に届ける進物が伊達家より少なかった。この点について映画『赤穂浪士』のなかで脚色されている。長矩と昵懇である脇坂淡路守が浅野邸を訪ねた際の帰りぎわ、重臣片岡源五右衛門に吉良への進物に何を持参したかを問う場面がある。
源五右衛門は躊躇いながらも、「鰹節一連に御座ります」と答える。それを聞いた脇坂は、「世情の噂でによれば伊達家からは、加賀絹数巻、黄金百枚、狩野探幽筆龍虎対幅(掛け軸)などが贈られたと聞き及ぶが…」というが、源五右衛門は毅然として、「派手な贈答は避けるようとの、殿の御指示」と意に介さず。脇坂はこれに対し異を唱え、以下のやりとりがなされた。
脇坂 :「殿がそう申したとて、側近にはそれなりの才覚もあろう?」
片岡 :「主命に背けと仰せか?」
脇坂 :「相手は上野介じゃぞ。犬に犬の好む餌をやるだけじゃ。さすれば尾を振って内匠頭に吠えかからぬであろう。無事に済んだ後、主命に背いた罪を責められることとならば、責任をとって腹を切ればよい。それが主君の信頼に対する家老の重職を委ねられたる者の責務ではないのか?」
源五右衛門は脇坂淡路守の言葉を親身に受け取って後、己の至ら無さ、才覚の無さを長矩に申し述べるが、「気にせずともよい。儂は儂の信ずる道をゆく」と長矩は源五右衛門たしなめる。それを受けて長矩の台詞が圧巻である。「賄賂などは卑しきこと。卑しい人間と知りながらその意を汲もうとするは、卑しき彼らより、己の心をより卑しくすることではないか」。
相手を卑しい人間と定めたとき、あるいはそうではなかったとしても、相手に媚を売り、へつらうことが己の卑しき心を助長することになろう。似たような場面に出来わすとき、必ずこの場面を思い出す自分であるが、その点においても本映画を知ってよかった。自らを卑しくせぬために卑しい相手に迎合しない。何とも簡単なことであるが、己の卑しさを軽蔑するから可能となる。
「男は奢って当たり前」という女を嫌うようになったのもこれらから派生した。卑しき者は男にもいるが、女ほど露骨ではない。余談はさておき、浅野長矩は、播磨赤穂藩の第3代藩主。安芸広島藩第4代藩主の浅野綱長は、浅野家宗家5代当主である。兵庫県赤穂市と、NHK朝ドラの「マッサン」こと竹鶴政孝が生まれ育った広島県竹原市は、共に塩田で栄えた。