それ以降、嘘をつかぬ女が自分にとっての良い女の基準となる。あきらかな女の嘘は問い詰めない。問い詰めるより嘘だと確信する洞察力の方が大事で、嘘つき女と分かった時点で見切るため。もしそれが身近な妻だったらどうする?言わせてもらうなら、自分はそういう女をハナから妻になどしないし、「信頼されたいなら嘘をつくな」を早期の段階から言い含める。
言い換えるなら、これを教育というのだろう。「自分に害を及ぼすことはするな!それをやると叩き出す!」とも言っておく。何もしないで何かがあったら、手をこまねく狼狽夫もいるが、何もしておかなかったツケの責任は自ら取るしかない。苦吟する也、暴れるなりすればよい。「真実を恐れるな、真実から逃げるな」とは自分の人生哲学であり、このように生きれば嘘に頼る必要はない。
かつては女の離婚を、「出戻り女」と世間は冷笑したが、夫に三下り半を突きつける女は多し
自分は遅刻の言い訳を絶対にしなかった。もともと言い訳は浅ましいことだから好きではないが、遅刻の言い訳をしない理由として、①真実を恐れない。②嘘に耳を傾けなければならない上司への同情。③己の良心が許さない。それくらい信憑性のある「言い訳」などない」ということ。明らかな嘘を平然と言うほど恥知らずで愚かな人間である、という人間観もあった。
「妻を信じます」と、「妻を信じてます」の言い方は微妙に違う。「信じる」は、単に自分の考えを述べるという意味で「信じる」。が、「信じている」は、信じるだけでなく、「理解している」となり、「理解するだけでなく実践する」という意味にもつながるではないか?実践するためには理解が必要となる。一般に、「信じる」と、「理解する」は同じに使われる。
太川が、「妻を信じる」といったのは、今回の事に対する妻の説明や言い分を信じるとしたもの。仮に、「妻を信じている」との言い方なら、今回の件に対する妻の言い分に限らず、過去に遡って彼女を信じているとなる。様々に解釈されるだろうが太川は、「事情聴取のように3、4時間かけて話を聞いた。それで『何もない』って言うからそれで終わり」という。
これが男気だそうな。週刊誌には男の自宅マンションに合鍵を使って入る様子や寄り添うツーショット写真などなど、あらゆる証拠がテンコ盛りだ。仕事で訪れた宮崎県内のホテルの一室で一晩を明かしたとも報じられた。その経緯について、太川は、疲労困憊だった藤吉が相手からマッサージを受け「(2人とも)そのまま寝ちゃった」という説明を受けたという。
「体をほぐしてもらった」などの嘘を思いつく女のボキャの才能。男は太刀打ちできない
普通なら通用しない言い訳を太川が信じるのは太川の問題だからいいが、自分は絶対信じない。信じるに値するものは言葉ではなく行動である。さらには、何もない潔癖なら、どう疑われたところで鼻息荒くデンとしてられるはずだ。デンとしていられるから、軽率な行動だったと、自らも笑って済ませられるもの。とかく、女のやることはちぐはぐで支離滅裂である。
政治家の山尾志桜里は、今でこそデンとした態度をとってはいるが、最初に文春記者から突撃取材を受けたときは、顔もひきつり、言葉もしどろもどろの動揺が感じられたが、時間もたてば知恵もつく。「ない」という筋書きの脚本を完成してしまった。自分も経験あるが、ないものをあると噂になっているのを知った時は、笑うしかなかったし、腹も立たなかった。
女が自分と関係したと振りまいていたのだが、したかしないかは本人が一番わかっているし、言いふらす女にも分かっていること。ならば、「ない」を、「ある」と言いふらす理由が存在し、そこを考えれば動機は見える。自分はその意図が分かっている。が、「あんな女に誘われたからって、正直、金をもらってもやりたくないわ」と返報するほどのバカではないのよ。
そういうことをいうメリットはゼロである。自分の自尊心はそんなことでは壊れないし、他人からあらぬ疑いをかけられたところで、惨め女の狂言には笑ってやるしかない。過去において不倫の疑義をかけられた芸能人や政治家で、その場で笑顔で笑った者はいない。それからすれば自分はすべて事実であったと思っている。文春がなぜあのような突撃取材をするか?
「しおらしい」にはいろんな意味があるが、この時の山尾は今とはまるで違うほどに志桜里しい
なにより最初の第一声が事実の可否を決定するものであるからだ。それ以降は誰でも繕うに決まっている。自分が自分のデマを聞かされたときに、大笑いをしたが、その時の上司の驚いた顔は今でも忘れない。疑義がデマであるなら、文春記者の前で大笑いすればいいのよ。笑って誤魔化すのではなく、出べそでないのに、「出べそでしょ?」といわれたら笑えるハズだ。
山尾の狼狽した顔が穏やかならぬ胸の内を物語っている。藤吉も報道陣に囲まれ、「今回は私の軽率な行動によってご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」と消え入るような声で謝罪したあとは号泣するばかり。本当に何もないなら、「文春さんも大変ですね~、残念ながら期待に添えるようなものはなんにもありませ~ん」。と、笑っていえると思うが…。
人間は言葉よりも態度に現れるものだが、政治家ともなると攻撃されるほどに、支持を落とさぬために虚言という武装を強め、態度を装う。政治家ほど真実に生きなければならないはずが、政治家ほど嘘や詭弁に身を包む者が多い現状だ。いつも思うのは、「言葉は行動を隠すために与えられた」という名言だ。「言葉には興味がない。あるのは行動だけ」という言葉を信奉する。
「あった」ことを「ない」とぬけぬけというのも女なら、「ない」ことを「あった」というのも女である。前者はとりあえず羞恥心の問題だろうが、後者は完ぺきにバカであろう。だから、自分はバカには何も言わなかった。「お前、ないことをなぜそんな風に言いふらす?」という言葉さえもいう意味を感じなかった。当たり前だ、バカのやることに意味などない。
一者との合一とてままならぬも、多者とは欲深きこと
芸能人や公人というのは、仕事とはいえ、商売とはいえ、大変だと思うわ。それでもアバンチュールを楽しみたいなら、腹をくくってやるしかなかろう。人間にとってのエロスとは山尾や藤吉をみても、中年にとっても重要なのだろう。エロスの力とは合一である。人間は「個」として、自分と他を区別した存在であることを認めたいと望む反面、他との合一・融合を望む。
エロスとは、そういう合一の欲求や衝動を示すもの。中年夫婦は同居はするが、別室に寝て性関係はない。が、エロスの火が消えたわけではない。エロスの方向がどのように向かうかは色々である。中年以降になるとエロスの対象は人間以外のものになる場合が多い。趣味や収集、料理や文化、ペットの飼育…、そこには不思議ともいえる合一の感覚が働いている。
エロスの対象を人間に求める人もいる。一夫一婦制の規律社会においては、婚姻関係外にエロスの対象を持つのは「悪」と裁断される。違法ではないが、不道徳として衆目の矢面に立たされる。世間はまた道徳を踏み外した人たちを肴に、悪口というエロスを楽しむことにもなる。何においてもとかくこの世は面白くできており、楽しめるようになっている。