「友人に裏切られた」という言葉は、友人であることが錯覚だと思えば済む。真の友人とは自分の利得のために相手を裏切ることはない。太川に話を戻すが、彼は「妻を信じる。その理由は妻だから」といった。一方の妻はといえば、不倫は否定したが、開き直ることをせず、ひたすら泣いて見せ、「こんな妻で申し訳ない」と殊勝な言葉で自らの非をアピールした。
「太川さんなしでは生きていけない」とまで言われた太川は、やふにゃふにゃ状態。長年の亭主関白家庭で得た彼女のしたたかさであろう。夫を持ち上げていればいいわけだし、こうした彼女の夫への従順性は女の計算高さでもある。女の男に対する最も明晰で最善の立ち回り法は、「男に従属することによって逆に男を自分に隷属させてしまう」。今回の一件はまさにそれである。
機に臨んで得をするのは普段の行いの賜物。威張りたい夫をのさばらせ、従順がごとくに見せれば単純バカ男などちょろいものよ。常時夫の監視下にいるわけでもなし、不自由の中の自由はむしろ刺激を強めよう。男とホテルに宿しても、「妻を信じる」と夫に言わしめた藤吉の圧勝だ。もっとも太川は、「斬り捨て御免」の剛毅な男ではなく、妻の従順で威張っているだけの男。
こういう男は逆に妻に三くだり半を突きつけられると土下座もしかねない男である。「知らぬは亭主ばかりなり」とはいったもので、これは妻が夫の騙し方に長けてることをいう。映画『うなぎ』では、夜釣り好きの亭主にやさしい言葉に手作り弁当を持たせる良妻を絵にかいた妻だが、亭主の留守にお忍びで訪れる男を近所の老婦が見かね、夫の会社宛てに匿名の書状を送りつける。
坂口安吾は『悪妻論』の中でこう記している。「思うに多情淫奔な細君は言うまでもなく亭主を困らせる。困らせるけれども、困らせられる部分で魅力を感じている亭主の方が多いので、浮気な細君と別れた亭主は、浮気な亭主と別れた女房同様に、概ね別れた人に未練を残しているものだ。(中略) いわゆる良妻というものは、知性なき存在で、知性あるところ、女は必ず悪妻となる。
知性はいわば人間性への省察であるが、かかる省察のあるところ、思いやり、いたわりも大きく又深くなるかも知れぬが、同時に衝突の震度が人間性の底に於て行われ、ぬきさしならぬものとなる。人間性の省察は、夫婦関係に於ては、いわば鬼の目如きもので、夫婦はいわば、弱点欠点を知りあい、むしろ欠点に於て関係や対立を深めるとうなものでもある。」
「欠点において対立を深める」というのは当然にして当然で、人間が互いの長所において対立することはない。人間が欠点の塊なら、相手の欠点を自らがどう咀嚼するかにかかっている。安吾は以下、良妻について疑念を呈する。「いわゆる良妻の如く、知性なく、眠れる魂の、良犬の如くに訓練された奴隷のような従順な女が、真実の意味に於て良妻である筈はない。(略)
男女の関係に平和はない。人間関係に平和は少ない。平和を求めるなら孤独を求めるに限る。(略) 大体恋愛などというものは、偶然なもので、たまたま知り合ったがために恋しあうに過ぎず、知らなければそれまで、又、あらゆる人間を知った上での選択ではなく、少数の周囲の人からの選択であるから、絶対などというものとは違う」。運命論者はゆえに思い込みだと思っている。
思いたい人の人生を否定はしないが、「袖振り合うも他生の縁」という仏教の言葉を信じているのだろう。安吾は良妻は偽物だという。良妻を演じるなら陰の「悪」部分は発生し、それを自身がどう処理するかということになる。とはいえ、悪妻が良妻ともいえない。悪妻に一般的な型はなく、「知性あるものに悪妻はない」という。悪妻ではないが亭主を悩ませる。苦しませる。
悪妻とは夫と妻の個性における相対的なものであろう。絶対的な悪妻というのはない。法的な罪を犯したからといってそれは人間の罪であり、妻の問題ではなかろう。悪妻を定義するのは安吾のようにはいかない。それでも「悪妻は百年の不作」という。将棋仲間のFさんは72歳で小遣いが月に千円。携帯は着信制限を3件に限定され、こちらからはできないという。
なぜか将棋を嫌うらしい妻からの電話があると、「図書館にいる」とFさんは言う。「図書館にいるといえば安心するから」と笑いながらいう。「何で将棋がダメなわけ?」と聞くと、「とにかく嫌いなんだよ」という。こうしたすべてのことを楽しくいうFさんは、妻を悪妻などと微塵も感じていないようだ。我々から見ればとんでもない女だが、Fさんは愛されていると思っている。
自分の妻も人の妻も妻は妻なら、自分に関係ない他人の妻を悪妻と見るのも自然なことだが、当の夫が悪妻と思わなくとも他人が見れば悪妻である。他人の妻は自分に何の利益も害もないが、それでも悪妻とみれば悪妻である。近所の良い子を良い子と見るように。知らない女を美人と見るように。それにしてもFは、愛とは自由ではなく束縛と感じているらしい。
奇特な人だが本人はそうも思っていない。Fさんの妻も悪妻などとは思っていない。世の中そういうものか?そういうものだ。藤吉久美子を自分は悪妻とは思わないその理由は、家から叩き出されてこそ夫にとって悪妻である。悪妻についての自分の考えは、嘘を言う妻に限定する。人に嘘をつかないというより、自らに嘘をつかない女を良妻とし、悪妻はその反対である。
言い訳、言い逃れ、その場限りの嘘をつかぬ女がこの世にいるのか?渡辺淳一は、「女の嘘は車とタイヤのごとき密接不可分」といったが、多くの男はそう思っている。女の嘘の特性は分かっているつもりの自分だが、男はどう処すべきか。嘘は大きく3つに分類される。①幻想的な嘘、②社会的承認を求める嘘、③自衛上の嘘。①はファンタジックな女に多く罪はない。
②については背伸びのようなもので、これは男にも多い。害がなければ罪を問わない。最も問題なのは、③だろう。端的に言えば困ったり不利な状況になったら、逃げるか嘘をつく。様々な嘘や虚言を問題にするというより、自分から見た嘘つき女とは、絶えずいうことが変わる女をいう。昨日と今日で違う。30分前と後でも違った。それほどに情緒に問題がある。
自分はこれを母親から体験して苦労した。言ったことを言わない、言ってないことを言ったなどは、どうにもならない状況。だから、こういう女だけは困る。したことをしていないととぼけても、突っ込めば嘘だと分かるが、嘘と認めさせる手間と時間が無意味でくだらない。どれだけ自分にとって都合の悪いことでも、嘘をつかない女がいるのを自分は知っている。