猿は人間が育てても猿にしかならないが、もし、人間を猿が育てたらおそらく人間としての大部分の能力は開花することはないだろう。学びを必要とするのは人間に限ったことではないが、人間は生涯にわたって学んでいける動物である。子どものときは遊びを通して多くを学ぶ人間を、遊びを遮断してひたすら物を記憶させる訓練ばかりする親を憐れと思っている。
が、憐れと思わない親たちはそれで満足し、自分のような考えの人間を憐れと思うだろう。だから、「人は人」ということになる。それでいいというより、そういうものでしかない。そうした汚れてしまった大人のことはいいとして、子どもを観察して思うことは、「好奇心」が何より重要であるのが分かる。人間の能力は様々に分類されるが、こういう記述を目にしたことがある。
「人間の能力で大事なのは、①創造力、②理解力、③記憶力であるが、③<②<①という順であろう」。創造力発芽のカギとなるのが好奇心である。好奇心はさらには、想像力を富ませ、遊び好き、偏見のなさ、何でも試す、柔軟性、ユーモア、新しいものへの受容性、正直さ、学習意欲、さらにはもっとも普遍的かつ、もっとも価値ある特性として愛することの欲求をの土台となる。
そうした人間的な特性の習得を無視し、早期から塾漬けにする親は自分から見れば憐れである。他人を心で批判するのは、自らの糧とするわけだから、口に出していう必要はない。こういうところに書くのは何ら個人攻撃でもないし、灘高⇒東大三兄弟の人間的懸念は抱いても、母親を露骨に貶したりはしない。理由は簡単なこと、彼らの家庭の問題であるからだ。
ただし、妄信して真似をする親に対する危惧について具申をする。つまり、親や大人に堕落させられない限りにおいて正常な子どもは、上記の特性を自然に備えている。だから彼らは、「なぜ」、「なぜなの?」、「何のために?」、「どうして?」というような際限のない問いを発する。そうした必然的な問いが沸き起こる前に、高等レベルの知識を植え込もうとする。
それが子どもの将来にとって多大な御利益と思うからだろうが、失われる部分には目がいかない。そういう親は失われる部分は些細なことと感じているのだろう。反面自分は、失われる部分の方が大事だと思っているその価値観の違いである。相対的価値基準であるからして、これは選択の問題である。子どもは正直で純粋であり、そうした喜びや嬉しさが笑顔を見せる。
彼らは、大人や親から怒られはしないかと疑う時を除き、真実を語る。また、見た通りを口にし、水を吸い込むスポンジのようにあらゆるものを吸収する。彼らは机の前に座していなくとも、常に学んでいる。世の中の一切が学習なのである。にも拘わらず、親という愚かで憐れな種族は、学習とは教科書の勉強であり、それ以外を認めないとするのだから滑稽である。
数年前から自分は、「子どもは何か?」、「どうあるべきか?」について考えるようになった。が、子どもには必然的に親がいる。だから、子どもに問題意識を持つことは親に問題意識を持たせることである。そういう気持ちで書き込みを始めたが、親が問題意識を持つことの障害になるのが社会の体制であることに気づいた。社会というのは国家体制の根幹である。
どうにもならない問題と感じた。もっとも、自分がどうにかすべきなどの考えもない。市井の末端のなかで社会の成り行きを見分しているに過ぎない。社会の中の一員が、社会の動きを眺めるのはそれはそれで面白いものだが、人はそれなりの年齢を重ねると、新しい情報を引き出すような質問をしなくなるものだが、そういう大人に抗っている自分は昔と変わらぬ反骨の雄。
なぜ大人は慣れないものに出くわしたとき、子どものように、「なぜ?」、「何のために?」、「どうすればよいのか?」などの問いもしない、意識さえもないのだろうか?様々なことが考えられる。「付和雷同的な多数派でいたい」、「慣れないことに神経を使うのが面倒臭い」、「無知をさらしたくない」、「思ったところで何が変わるものでもない」などなど…
こういう大人は嫌いだが、多くの大人がこうである。彼らは興味深い新たな考えや体験にはなぜか無関心である。古い様式のなかに新しいものを取り入れるのは、たんに面倒を引き起こすだけだと考えるのだろう。自分がそうではなく、常に新しいもの、良くなるものに思考を試みるのは、「面倒」を禁句にしているからなのか?確かに「面倒」というのは自分の辞書にない。
どんなことが面倒なのか良くわからないから、人が至極単純なことを「面倒だ」というのが刺激的で面白い。「こんなことのどこが面倒なのか?」と思うようなことを面倒というなら、相当に込み入ったこととには、面倒を超えて逃げ出すのではないか?などと思ってしまう。現にそういうことが多い。逃げ出すということも自分は好きではない。だからやらない。
「逃げ出す=解決ではない」とするなら、解決のための思考をする。それが生きてることの面白さである。「何でも考え、何でもやってみる」の、「何でも」という言葉は、嘘偽りのない額面通りの、「何でも」である。子どもの遊びは単純だ。それこそどんぐりや棒切れや河原の小石でも遊んでみせるが、大人遊びは、「レジャー」などと遊びに金がかかるし、道具も装置もいる。
そういう遊びを「自分は好まない。かつて、「大人と子どもの違いはオモチャの値段にある」といった人がいたが、最近は子どものオモチャもバカにならない。あらゆる面で大人と子どもの差がなくなっている。昔の子ども靴はズックという安いものだったが今はナイキやアディダスだったりする。洋服も同様だ。世の中の変節だから、昔と比較してアレコレ言っても意味がない。
映画『彼岸花』から多くのことを学べる。節子が家を飛び出して谷口の部屋に行ったとき、谷口は節子に帰るように諭すが、今なら早速布団を敷くところかも知れない。チューもしないのはカメラが回って脚本もあるから…?それを言っちゃ~おしめ~だ。谷口は節子を送っていくが、その時に履いているのがなんと下駄であった。下駄など何年履いていないことか。
カランコロンは、「鬼太郎」だが、下駄といえば、「あ~した天気にな~れ」と跳ね上げる。表が晴れ、裏なら雨。当たったためしはないが、子どもは無邪気である。遠足の前はテルテル坊主を作った。こんにちなら天気予報が正確だが、テルテル坊主は呪文の世界である。子どもにとって下駄は激しい運動の際には邪魔だ。音もうるさくそういうときは脱いで裸足で遊ぶ。
変わって登場したのがゴム草履。我々の時代に草鞋(わらじ)はなかったが、ゴム草履を万年草履といった。万年履けて減らない草履の意味だが、底は減らずとも鼻緒の部分が下駄と同様に切れやすい。下駄の鼻緒は直せるが、ゴム草履の鼻緒が切れると致命的だ。今ならビニールテープで直せるが、それも間に合わせ程度。切れると縁起が悪いなどといったもの。