彼岸花』の主人は誰であるとか、中心人物が誰とか、そんなことよりもこの映画は何を創りだしているのかを考える方が面白い。物語の内容や監督の製作意図は映画を観れば誰にも分かる。天才監督になるさっぱり意図の見えない映画もあるが、小津はそういうタイプではない。ありきたりの話をありきたりに見せ、カメラワークやカット手法などで観客を感動させる。
作品のほとんどが家族を題材とし、そのなかに日本的在り方としての人情や人生の機微や哀歓を表現しようと試みるが、それを争いや対立といった形で見せるのではなく、あくまでも落ち着いた調和のなかに見いだそうとする。本作は父と娘の結婚観の対立であるが、対立を別の視点からうまく調和させ、最終的にはしこりを残さぬようにまとめる小津の家族への愛が感じられる。
老若や男女や親子には当然ともいうべき価値観の相違があり、それらは対立の要因となってしかりで、何の対立もないというのはどちらかが死んでいることになろう。対立を善悪で考えるなら対立は一層深まり、解決の出口は見当たらない。老の善は若からみれば老害となり、男(女)の善を女(男)から見れば勝手な言い草でしかない。親の善は子から見ればむしろ悪となる。
映画は世代間の相違や親の子に対する傲慢を小津的手法で見事に解決させている。そこは自分の思う映画の見どころではない。問題克服の要点は、様々に考えられるが、本作においてはやや作り話感がある。夫唱婦随の原点は、妻が夫をたて、夫は妻の手のひらで踊らされながらも、威厳を保っているところ。妻は無謀と思う夫であっても、子どもの前では夫批判をしない。
この手法がなぜ良いか?家の中に船頭が二人いるのは組織としてよくない。プロ野球でも監督は一人であり、コーチと監督に確執があると選手の方向性が定まらないことになる。これは組織論の根幹であろう。「船頭多くして船山に登る」というが、船が山に登るほどおかしな方向に進んでいくという例えである。「内助の功」とは、これができる妻を言う。
「そんなこと言ったって、夫があまりにもバカすぎて…」という妻がいるが、それほどバカな夫なら全権委譲に持っていくしかなかろう。とかく夫婦は子どもの教育において価値観の違いが派生するが、離婚理由としてベスト10にもないのは、子どものことは妻に任せきりという夫が多いからだ。自分場合は総理・文科省・財務省は自分にあった。妻は厚労省と農水省がメイン。
まったく波風は立たなかった。大臣として熱心に仕事をしていたので、妻も依存で安心だったのだろう。この場合のメリットは子どもが母親にごねない点である。何かしらごねたら妻は速攻で、「お父さんに言いなさい」で済んだ。子どもは、「何も言えなかった」という不満を今ならこぼすが、4人の子どもがそうなら、「自分勝手はできない」と不満は収斂されていく。
小津の映画手法は、ロー・ポジションアングル、カメラの固定と標準レンズ、カットつなぎ、カーテン・ショット、快風快晴(全編を通して)、正面向きのショット、連続した時間の流れ、相似形の構図、反復などの特徴が頑ななまでに守られている。さらには何といってもあの台詞の言い回しは、まるで台本をそのまま読んでいるかのごときで、最初はずいぶんと違和感があった。
「そうかね」・「そうですわ」
「やっぱりそうかね」・「やっぱりそうですわ」
「いいよ、いいんだ、いいんだよ」
「やめちゃえ、やめちゃえ」
「よしちゃえ、よしちゃえ」
「ちいせぇんだ、ふとってんだ、かわいいいんだ」
「そうよ、そうなのよ」
「凄いな、凄い凄い」
「そうかね、そんなものかね」
「ふーむ、やっぱりそうかい」
上記した小津映画の、「反復=繰り返し」、また「鸚鵡返し」は意識してなされているが、理由としての解釈は種々あれど、真実は分からないままである。クラシック音楽にソナタ形式というのがあるが、提示部⇒展開部⇒再現部⇒繰り返し、という決まった構成の音楽の表現形式だが、小津作品にはそれを感じる。奇をてらわない実に単純な小津作品も特筆ものであろう。
「全て偉大なものは単純である」という言葉があるが、小津はそれの模倣なのか?映画の核ともいえる平山の中学時代の級友三上にも文子という年頃の娘がいるが、彼女はキャバレーのバンドマンと同棲しながらバアで働いている。同棲といい職種といい、平山には底辺に位置する人間であろう。もしこれが平山の娘であったら首に縄をつけても連れ戻し勘当も辞すさない父である。
平山は三上に頼まれたこともあって、文子がどういうつもりでいるのか、今後のことも含めて直接話を聞くためにに、文子のいるバアに向かう。文子は平山に父親の不満を洗いざらいぶちまける。父の友人がわざわざ自分に会いにくるというなら、おおよその勘はつけるだろうし、そうはいっても文子も適齢期の女性である。中高に説教するわけにはいくまい。平山はこう切り出す。
「君はお父さんのことをどう思っている?」
「父は気の毒だと思ってます。でも頑固なんです。理解もなさすぎるし、ちっとも分かろうとしてくれません。自分の考えだけが正しいと思ってるんです」。
「そうかね?そうだろか…」。平山は同じ父親としての顔を見せようとする。
「父は何でも自分の思い通りにならないと気にいらないんです」。
「そうでもないだろう。お父さんは君のことを心配するからじゃないのか」。
「心配なんかしてもらわなくていいんです」。
「そうもいかないだろう。で、君はどうなんだ?幸せか?」
「幸せです。ちっとも不幸だなんて思ってません」。毅然と答える文子に「そう」と頷くしかない平山である。
文子の彼氏が迎えにくる。「文子はこれで失礼します」といったとき、平山はポケットから用意していたこころざしを渡そうとするが、断る文子。「ほんのお小遣いだ。遠慮するほどのものでもないよ」というが、「そんなことしていただかなくていいんです」と店をでる文子。この時代の女性らしい節度が感じられる。一人その場に残りグラスにビールをつぐ平山。
この映画の中で文子への平山の善意に毅然とする態度が印象的だった。現代女性のような無用な愛想はなく、貧困でも強く生きんとする姿勢が感じられた。文子が父を気の毒といったのは、社交辞令というより、普通の結婚から家庭に入る一般女性とは違う自分であるからだが、それが彼女の幸せであるなら何の問題もない。親が見栄や世間体を気にするのは親の都合である。