やはりというか、映画『彼岸花』の記事を書いていた。2008年2月3日だから、9年と10か月前だからアバウト10年前となる。30年前、50年前でも自ら体験したことなら克明にとまでいわずともそれなりに覚えているが、ブログの記事執筆は体験と言わず、「10年ひと昔」に書いた記事は覚えていない。昨日の記事と比べながら読んでみると、いろいろ感じることもあった。
前回の内容はレビュー主体で、今回は親に屈しない節子の谷口との愛の強さを主眼である。愛についての名言は多く、狐狸庵先生こと遠藤周作がいいことを述べている。「魅力あるもの、キレイな花に心を惹かれるのは、誰でもできる。 だけど、色あせたものを捨てないのは努力がいる。 色の褪せるとき本当の愛情が生まれる」。最後のセンテンスはどういう意味か?
遠藤の言葉の出典は『愛する勇気が湧いてくる本』の中の一節、「愛とは苦しみを通して他人と結びつくこと。美しいもの、魅力あるもの心ひかれることは容易い。たとえそれが魅力を失い、色あせたとしてしても守り通すことが大切なのだ」であろうか?同様のことを他のエッセイにもあるが、「色の褪せるとき本当の愛情が生まれる」が、どの著書のどの箇所かは分からない。
『沈黙』や『わたしが・棄てた・女』という小説で、「棄てないことが愛だった」というようなことを書いている。なるほど、棄てないことが愛というのはそうかもしれない。生徒を見捨てる教師、子どもを見捨てる親、女(男)を捨てる男(女)に愛がないようにである。ならば、「捨てる神あれば拾う神あり」はどうなのだ?拾う神はいいとして、神は人を捨てるのか?
「捨てる人あれば、拾う人ある」なら分かりやすい。あえて神にしたのは、神が捨てる=よほどの事、という誇張した表現であろう。諺の意味は、どんだけ不運に見舞われようと、困ったことがあろうと、必ず助けてくれる人もいるので悲観してはならない。ただ、だれも救ってくれないこともある。信じて心を折らぬようにとの戒めであろう。自殺者は救いを求めていない。
もしくは求めてはみたが、これといって身にならなかった。だから死んでいくのだろうか。死ぬということが解決だと思うのだろう。どうであるにせよ自分には自殺する理由は分からない。正確に言えば、「他人の自殺の理由が分からない」のではなく、自分が自殺する理由が見いだせないということ。他人が失恋してそれで自殺しても、それがその人の死ぬ理由である。
自分と比較はできないということ。何にせよ、他人と自分を比較しても大きく異なるなら、比較することに意味がないように思う。他人のおならが臭いとあれこれ言ったところで、自分の臭くないおならの評価が上がると思いたいのは自分だけだ。「隣の芝生は青い」という有名な諺があるが、とかく人は他人と自分を比べ、相対的評価をしがちだが、止めた方が良い。
他人と比べての劣等評価だけでなく、優越評価もすべきでない。なぜなら、どれだけ自分が優れてると思ってみても、上には上が腐るほどいるのだから、「誰より勝っている」などは所詮、目糞・鼻糞である。将棋を指す人に結構いる。自分は誰より強いとえばる人。そういう人は、自分は誰より弱いなどといわない。理由が分かるから批判はしないが、本人には自分が見えていない。
どの世界にも自分より上はいる。「足るを知る」のは人間の生きる基本だが、「余りを知る」という慣用句はない。当たり前だ、人にはいくらでも上がいるから、最上位者と比較して、「余りを知る」というなら立派である。子どものころに、「どんぐりの背比べ」という言葉を知った。子どもながらに比喩とは知らず面白いと感じた。栗は食べられるが団栗(どんぐり)は食べられない。
硬いからではなく仮にやわらかくしてみても、タンニンやサポニンなどのアクの強い成分が多くて食用に適さない。しかし、秋になるとデンプン質に富んだ堅果を大量に落とすため、ツキノワグマやリスなどの動物 にとっては貴重な食料となっている。大量に落ちているどんぐりをみながら子どものころの自分は、これが食べれたらいいのにな~などと思ったりした。
子どもはなぜかどんぐりを拾い集める。以下はある随筆。「出口の方へと崖の下を歩く。何の見るものもない。後ろで妻が「おや、団栗が」と不意に大きな声をして、道脇の落ち葉の中へ入って行く。なるほど、落ち葉に交じって無数の団栗が、凍いてた崖下の土にころがっている。妻はそこへしゃがんで熱心に拾いはじめる。見るまに左の手のひらにいっぱいになる。
余も一つ二つ拾って向こうの便所の屋根へ投げると、カラカラところがって向こう側へ落ちる。妻は帯の間からハンケチを取り出して膝の上へ広げ、熱心に拾い集める。「もう大概にしないか、ばかだな」と言ってみたが、なかなかやめそうもないから便所へ入る。出て見るとまだ拾っている。「そんなに拾って、どうしようと言うのだ」と聞くと、面白そうに笑いながら、「だって拾うのが面白いじゃありませんか」と言う。
ハンケチにいっぱい拾って包んで大事そうに縛っているから、もうよすかと思うと、今度は「あなたのハンケチも貸してちょうだい」と言う。とうとう余のハンケチにも何合かの団栗を満たして「もうよしてよ、帰りましょう」とどこまでもいい気な事をいう。団栗を拾って喜んだ妻も今はない。お墓の土には苔の花がなんべんか咲いた。山には団栗も落ちれば、鵯の鳴く音に落ち葉が降る。
子どものころ、彼岸花が好きでなかった。どことなく怖かったのは彼岸花のあの「赤色」と、怪しげな花の形だったろう。花が好きだという女性にも彼岸花は好きになれない人はいる。「人里に生育し、田畑の周辺や堤防、墓地などに見られることが多い」ということもあるのだろうか。見事な景観という表現もあるが、自分にとっては、不吉に群生する彼岸花である。
人が育種しなくてもどぎつく存在を主張する控え目の無さの花の代表である。ヒナギクやタンポポなどの可憐な野草にくらべて、存在感がありすぎるのも嫌味である。もう少し、控え目に咲けといっても無理からぬこと。彼岸(あの世)という花名の影響もあるかも知れない。別名を曼殊沙華といい、法華経などの仏典に由来することで「死人花」、「幽霊花」ともいわれる。