学童期というのはいつ頃までをいうのか?「童」の語句から考えてみた。「童」は「わらべ」、子どものことを言う。印象深いのはシューベルト作曲『野ばら』であり、日本では、♪ 童は見たり 野中の薔薇と歌われるが、ゲーテによる原曲の訳詞は、♪ 少年が見つけた小さな野ばら とても若々しく美しい。童が子どもなら、子どもはいつまで子どもなのか?
子どもの定義や用法は一口にはいえない部分がある。子どもに限らず、胎児、赤ん坊、幼児、学童、少年、青年、成人、大人、壮年、老齢者といった用語は、すべて生物学的にも発達上の観点からも現実に対応してはいない。恣意的なものであろう。「青年を英語でblue ageっていうの?」と聞いた女がいた。young manでも、young peopleでも、youngerでも通じる。
子どもの定義や用法は一口にはいえない部分がある。子どもに限らず、胎児、赤ん坊、幼児、学童、少年、青年、成人、大人、壮年、老齢者といった用語は、すべて生物学的にも発達上の観点からも現実に対応してはいない。恣意的なものであろう。「青年を英語でblue ageっていうの?」と聞いた女がいた。young manでも、young peopleでも、youngerでも通じる。
adolescenceは青年期、adultは成人と訳される。単語の語源は、ラテン語のad (~に向かって)と、olescere (成長する)から派生している。が、成長もまたキッチリと決まって起こるものでもなく、20歳をめどに止まるものでもない。成長は、生きることの必須条件だから、身体的にみても、成長はたんに大きさや重量や幅が増すという問題では決してなかろう。
生きる限り成長はある。髪の毛が生涯にわたって成長し続けるのは明らかである。ある人達の多くはその一部分を失ったとし、つまりこれをハゲというが、他の部分はしっかり伸びるので散髪が必要だ。この世のハゲゆく人々は、「何でハゲるんだ?」と、素朴な疑問を持っている。持つのは当然、持って悪くはないが、持ったところで、知ったところで恩恵はない。
美人を美人といい、そうでない人を不美人という。ハゲはハゲというが、ハゲでない人を不ハゲとも非ハゲとも言わない。ハゲの人を、「ハゲ」というのは普通はためらわれるが、「このハゲ~!」と半狂乱で怒鳴る女性がいた。あれは印象操作であろう。前後の脈絡を省いて、言葉だけを取り出し、「こんなことをいう女です!」という秘書だった男の惨めな仕返しだった。
ハゲ以上にみすぼらしい。不始末をしでかしながら怒る相手の言葉だけを取りげる汚い手を使うが、それに群がる人間はうんちにたかる銀バエか?女は言葉の動物である。もし被害者が男だったら、怒りにかまけて暴力をふるっていたかも知れない。暴力はダメというが、神は女に言葉を与え、男に力を与えた。力を与えたと同時に自制する理性も与えた。
暴力は理性で止めるべきだ。ならば言葉の暴力はどうなのか?言葉の暴力を自制する理性は女にないと自分は思っているので寛容する。「女に理性はない」といわれてムカつく女がいる。だったら、言葉の暴力は止めることだ。同様に男で暴力をふるうのも非理性男というしかない。非ハゲ男はいいけれども、非理性男は脳の小ぶりな爬虫類男であろう。
爬虫類は哺乳類に比べて脳が小さいゆえに凶暴といわれるが、科学的に正しく非科学的でもある。哺乳類よりもさらに大脳前頭葉の肥大した高等哺乳類は、なかでも人間は、自身を理性でコントロールしなければならない。いつ頃から言われ始めた言葉なのか定かでないが、「ハゲに悪人無し」といった。こうしたひとくくりにした慣用句は結構あるが、いずれも根拠はない。
「女性に理性はない」という自分も、勝手な独断である。が、これは諍いを防ぐためにである。そのように思っていればいちいち腹も立たない。バカを対等とみるから腹も立つのだから、「バカだから仕方がない」と思う方が自己の精神衛生上にもいい。「それって、人を見下してないか?」というが、常時見下しているのではない。バカがバカなことを言うときだけ。
すべては怒りを自制させるための自己啓発法である。常時人を見下し、つまらぬ自尊心を引っ提げて悦に入っているなら羞恥であろう。争いごとを避ける時は、相手のレベルに自分を落とさぬのが良い。赤ん坊がわんわん泣き叫ぶのをみて、放り投げる男がいたが、この男は赤ん坊と同レベルの幼児、いや、乳児であろう。つまらぬことに腹を立てない生き方に勝るものなし。
人は誰でも心の「師」を持っている。その人が職業教師である必要はないが、自分にとっては教師である。「師」にもいろいろあるが、教わる師なら人は誰も「教師」である。大百科事典に、「学童期」の用語解説として、「発達区分の児童期 (6~12歳)と一致する」とあった。12歳といえば6年生である。5~6年生の担任は金剛七五三子という女性教師だった。
旧制師範学校卒の才媛であったようだが、才媛が人間性を伴っているかは種々の人間から違和感を抱いている。彼女に背中を思い切り鞭で叩かれたのは、今となってはいい思い出である。問題はその後の自分の担任に対する態度である。子どもは自分に正直であり、心を偽ることの利点を知らない時期でもある。だから、面白いもの、つまらない物には遠慮なく反応する。
授業の下手な教師は子どもにそっぽを向かれるのは当然だ。一部のおりこうさんの子どもが聞いているフリをするおかげてメンツを保っているが、自分などのような普通の悪ガキは、こんな教師の授業など聞いていられない。おりこうさんな子どもがいいのか、率直な悪ガキがいいのかは、その時点で判断されるより、その子の将来的な暗示を示すものだろう。
「フリ」の得意なおりこうさんは、そのように生き、それができない悪ガキはそれらしく生きていく。鞭で叩かれた以降の自分は、何の遠慮もなく露骨にその教師に反逆した。それができたのは、母に対して同じようにそうしていたからである。おそらく自分はこの教師と今後一切口を開かないと誓ったようだ。そういう意地を持った童であった。それこそ「素直」の一字である。
相手におもねる、媚び諂うなどは絶対にしないと、それを母親とのバトルで身に着けていた。金剛先生はあの時鞭で打ったことの傷をずっと引きずっていたのを自分は後に知った。彼女は卒業前のある日、自分を教員室に呼び、全員の文集を冊子にするためのガリ版印刷を自分一人に命じた。毎日放課後、暗くなるまで一人で鉄筆で蝋紙に向かい、インクまみれになった。
それが教師の自分に対する心の謝罪であったのだ。女は一時的なヒステリーを起こす。「このハゲ~!」ではないが、そういうものも含めて女である。そうした一切のものを背負って生きてきた女性である。金剛先生が自殺した数年後、実家にお参りに行ったとき、母親からいろんな話を聞かされた。人が背負うものの大きさには目が向かないが、それらは必ず今に現れる。
実母も明治生まれの巌窟な父親に長女として厳しく仕込まれたゆえにか、逃げ場としての嘘の達人となる。みなが己の自尊心を守る術を身に着けるのだろう。小津安二郎に、『彼岸花』という名作がある。結婚適齢期を迎えた長女と父親の確執を描いた作品だが、彼岸花の花言葉の中に適齢期というのがあり、おそらく小津はそれを作品の題名にしたのだろう。